第5話「避難所本部の阿部慶吾さんと出会う」

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7月17日(日)〈はれ〉

■診療所最終日。この日をもって避難所内診療所は閉鎖される。

この日で我々の医療支援活動は終了である。そして、我々の活動終了をもって、湊小学校診療所も閉鎖する。最終日なので、駆け込みでやってくる患者さんが増えることを覚悟して松島から診療所へ向かった。15日・16日の2日間は、T先生と交代制をとって診療をしていたが、この日は後片付け作業と患者増に備えて、終日2人診療体制をとった。

朝一番の仕事は、2階のトイレ掃除だった。これは、近畿ブロック大学チームが四日間の医療支援活動の最終日の作業として引き継いできたことらしい。女性用トイレはF看護師とS看護師の二人が行い、男性用トイレは私とT医師、U薬剤師の3人で行った。

診療最終日のためか、これまでの3日間と比較して朝から患者数が多い。診療内容はこれまでと大きな変わりはなく、ほとんどが、定期内服薬の処方箋を希望される方である。

午前中、不眠を訴える二十代半ばの男性が来室した。眠りが浅く、一度目が覚めるとなかなか寝付けない。カルテを見ると、何度か避難所内診療所にも来室している。精神科に通院中で、神経症と診断されている。男性は高校を中退後、通院治療をしながら両親と暮らしている。

「地震もあって大変だと思いますが、ご両親との関係はうまく行っていますか」

「両親は自分の病気のことを軽く考えていると思うんです」

「これまで働いたことはあるの?」

「働きたいと思ったことはあるんですが、まだ一度もないんです」

「いま一番心配なことはなんですか」

「今後のこと」

「将来のこと?」

「それもそうですが、仮設住宅に引っ越すと病院に通えるかどうか心配です。病院から遠くなるし、自動車は父が仕事に乗っていってしまうから、病院に通えないと思う」

この大災害が彼と彼の家族の生活(および彼らの関係)に大きな影響を与えている。大きな自然災害は、常に高齢者や障がい者、心身の病を持つもの、子供など、立場が弱い人間、手助けを必要とする人間から揺さぶっていく。

睡眠薬はすでに通院先からもらっているということだった。15分ほど話を聞き、投薬なしで診察を終了した。

■突然の断水。阿部さんは、ペットボトルの水を抱えて診療所へ来た。

来室者の切れ間に少しずつ診療所内の後片付けを進める。カルテや医薬品は石巻日赤病院の合同救護本部へ持って行くことになっている。診療所は閉鎖となるが、応急処置に使用する消毒薬や絆創膏などは、診療所として使用してきた小学校の家庭科室に置いておくことになった。日赤病院へ持って行くもの、廃棄するもの、家庭科室においていくものを5人の医師、看護師、薬剤師で分別しながら整理して行く。そしてその作業中、突然断水が始まった。

断水が始まって間もなく、1.5リットルのミネラルウォーターを2本もって初老の男性が診療所へ来た。

「断水は、昼頃までの予定だそうです。理由はまだわかりません。診療にこの水を使ってください」

水を診療所へ持ってきてくれたのは湊小学校避難所の本部で医療関連のまとめ役をしている阿部慶吾さんだった。阿部さんは、元石巻市立養護学校校長で、地震発生までは、湊小学校と国道398号線を挟んで南側(海側)にある石巻総合福祉会館の館長をされていた(福祉会館は震災後閉鎖)。

湊小学校と総合福祉会館。福祉会館の1階は市立湊幼稚園になっている

湊小学校と総合福祉会館。福祉会館の1階は市立湊幼稚園になっている

阿部さんからは、発災直後からの避難所の様子や、医療支援の状況に関して貴重な話を聞くことができた。福祉会館の1階は、石巻市立湊幼稚園になっている。

総合福祉会館は、この地域の災害時に避難所に指定されている。地震発生時、福祉会館にいた阿部さんは、幼稚園や津波警報を聞いて福祉会館に集まってきた避難者の統率を計り、独自の判断で多くの命を救った。

ここに記録する内容には一部重複がある。また、阿部さんが、全国からこの避難所に来た医療チームの直接の担当であったことから、やはり医療チームである我々に話す内容が肯定的見解に傾いているところもあるかもしれない。しかし、ここでは出来るだけ話のままに記録しておく。

地震と津波到来直後の湊小学校

阿部さん(以下A)「津波が来た後、(小学校の)プールには、3台自動車が浮かんでました。校庭はヘドロだらけで歩けない状態でした」

F看護師(以下F)「いまのこの運動場の土も、元々の土ではないんですか」

A「これはヘドロが混じった土です。あの歩道橋のあたり(湊小学校から国道398号線を指差して)鉄柱が曲がってるでしょう。あれは全部津波で曲がったんです。石でできた校門も倒れてますから。海から大きな石や何かがゴロゴロ流れてくるんです

F「ひどいときは校庭は全部水浸しだったんですか」

A「水浸しです、海ですよ」

F「水が引くのにかなり時間がかかったんですか」

A「はい。一晩かかりました」

F「人や、車も流されたんですか」

A「はいもう、浮いちゃって。そして沈んだりして。ここ(校舎2階にある家庭科室の壁掛け時計を見て)、15時50分で時計の針がとまってますよね。14時46分に地震があったんです。地震があって、津波警報が出て、「避難せよ」の指示があったんですよ。その避難指示のときに避難しなかった人が助からなかったんです」

※石巻に津波が到達する様子:

F「えっと、こちらの地元の方は津波警報は何度も経験されているんですか。わりとしょっちゅうあるのでしょうか」

A「だいたい1メートルくらいのね、津波はみんな経験してます」

F「「ああ、またや」という感じでとらえてしまったのでしょうかね」

A「『またいつもの津波か』ってとらえてしまうことはあったかもしれないです」

F「大津波警報というのは過去にあったんですか」

A「いや、それははじめてです。そのときも最初の小さな津波が引くのをみて、ああだいたいこんなものかと思い込んで、家に物を取りに帰ったりした人がみんな津波にのまれました」

発災直後の避難所の様子

A「暖房が何にもないので、私があそこ(総合福祉会館)からだるまストーブを持ってきて、電気も灯油も何にもないから、ある物を持ってきて用意して、そこでまず先生(医師)に診察してもらったんです」

佐藤(以下S)「けが人もかなり出たのですか」

A「けが人は、さほどなかったです。慢性疾患を持っている方が薬を持つ時間もなく、着の身着のままで避難したのでね、結局なんにもなくて薬も保険証も何もかもすべて流されたので、そういう方にカルテを作って、先生方の診療のお手伝いを私がしたんです」

S「阿部さんはどの辺りにお住まいなんですか」

A「私はここから(西に)100メートルくらい行ったところに家があります。ここに来る患者さんへの対応で家に帰る暇がなくて、だいたい2週間くらい経ってから家に帰ってみたら、自分の家も1階は全部水でやられて、車も3台全部流されて、カーポートの屋根も吹っ飛んじゃって」

S「今は、避難所にいらっしゃるんですか」

A「今は、家に帰ったりこちらで手伝いをしたり、両方をやっています」

避難所医療班担当としての阿部さんの役割

A「私たちがどうしてここにいるかというと、お医者さんが県外から来ます。その先生たちに、この地域の環境の細かい状況が情報として入っていないんです。先生方が我々を頼るのは、我々住民は、だれがどの辺りに住んでいるかはよくわかっている訳です。または、避難所にいると周りをみて、「となり近所の誰々がいない」というのがすぐわかるんです。水が引いてから「誰々がいない」ということになって、みんなで行くと屋根のちょっとした隙間に避難していたりする。そういう人が今度は具合が悪くなったとなると、先生方にその情報を流すと、それじゃあ様子を見に行こうということになります」

S「地域と医療支援チームとの橋渡しをしてこられたんですね」

A「まあそうです。橋渡し役をしていました。先生方は無駄なく動きたいというわけです。時間が限られてますから。紙がない、ペンがない、あるいは水がない、という要求にもできるだけ応えました。先生方に効率よく、少しでも多くの患者を診てもらうために」

地震発生直後、総合福祉会館長としての決断

S「もう一度、地震発生直後の話を聴かせてください。阿部さんは、地震が起きたとき、館長をされていた福祉会館にいらしたんですよね。津波を避けるために、1階の幼稚園の子供たちを道路をはさんだ湊小学校に移動させようと決断したのは、どういう理由だったんですか。ラジオの情報などを参考にしたのですか」

A「いえ、違います。ラジオも何にもないですから。地震の強さでね、あそこ(幼稚園のある総合福祉会館)は避難所だったんだけれども、これは危ないと判断しました。半端な地震ではなかったので、まずは子供たちを小学校に避難させて、また、普段から訓練していますから、地域住民もあそこに避難してきます。その人たちも全部小学校へ避難させました」

S「福祉会館への避難ではみんな津波に飲まれてしまうと」

A「そうです。あそこへの避難では持たないという判断を即座にして、小学校に避難しました。湊小学校は、耐震補強工事をしたばかりだったので、あそこへ行けばなんとかなると思いました。地域住民の中には大変怒った方もいるんですよ。『どうして福祉会館が避難所と指定されているのに、どうして向こう側にいかなくちゃならないんだ』とね。でも、揺れの強さが半端ではなかったので、どうしてもこれだけは守ってくれと言って、避難させました」

S「阿部さんが、子供や多くの人の命を救ったのですね」

A「わたしがもし、あと3分か4分(福祉会館で)ごたごたしていたら津波に巻き込まれました。小学校の4階で見ている人達は、『何やってんだ、早く来い』と手招きしてたみたいなんですが、私は子供や地域住民を避難させるのに夢中でしたから全く気がつきませんでした。それでも、そうやって一緒に避難した人は、みんな助かりました」

発災直後、避難所には水が足りなかった

A「こちらの避難所に来てみたら、薬は何にもないし、寒いし、一晩様子を見ていたら地元の開業医の先生が様子を見に来てくれて、先生は『もう(自分の診療所の)薬が流されてしまって何にもない』というわけです。それで、医師会へ無線でこの避難所の状況を報告して、それから1週間ほど、医療チームがくるまでの間、この部屋で対応しました。

S「地震発生から2日間は飲まず食わずだった、というお話でしたが、避難所には相当な数の避難者がいたのですか」

A「それがね、水は多少はあったんですよ。でも、1400名の避難者にわたりきるほどの量ではなかったんです。そして、避難者の中には赤ちゃんが多くいましたから、赤ちゃんに与える水を優先させるために、飲まず食わずを皆さんにお願いしたんです。そして、2日目の夜かな、ようやくコップにほんの少しだけ水が配られました」

S「そういう全体のマネジメント機関というか、避難所本部というのはすぐに組織されたんですか」

A「はい、それは自治会の連合会長で市議会議員の庄司氏さんが中心になって、すぐに組織されました。避難所では基本的に、町内会単位で教室に入っているので、私は町内会で副会長をしているものですから、5年1組の班長になる予定だったのですが、本部の方から、お前は本部に来て医療班の対応を専門にやってくれと言われました。それで、じゃあ医療班に対して何をしたらいいのかなあと思っていたら、お医者さんに情報を提供してほしいということでした。避難してきた方の体の具合とか、訴えの内容とか、そういうものを医師に提供してほしいと言われました」

S「避難所の避難者数が多いうちは何かトラブルはありましたか」

A「診療所開設当初は1日150人くらいの患者が毎日来ました。避難者同士で何かトラブルが起こるのじゃないかと覚悟していたんですが、あまりトラブルはなかったですね」

S「みなさん非常に協力的だったんですね」

A「ええそうですね。みんな周りは町内会で顔見知りですからね。何かトラブルが起これば後々まで困るわけですよ、トラブった人は。『ここは冷静に、とにかくお医者さんがいるから大丈夫だよ』という話をさせてもらったら、みんな安心していましたね。お医者さんがいなかったらこれは大変だったと思います。パニックですね」

S「医療だけではなくて、食料の供給等もトラブルの元になりますよね、飲料水にしても。そのへんは避難所のみなさんは、本部のリーダーシップのもと非常に協力的だったんでしょうか?」

A「そうですね。食べ物がなかったんでね。ちょうど良いことに、ここは魚の加工場があるんですよ。その中に、笹かまを作っている工場がありましてね、そこから1万枚の笹かまが提供されたんですね。それをね、3日間で食べきりました」

S「すごい!」

A「ええ、そうです。それで、そのうちにおにぎりが来てみたり、バナナが来てみたり、バナナは1本ずつでは行き渡りませんから、それを半分に切って、そういうことを皆で協力してやりました。それで飲み水が来たのは、3日か4
日経ってからでしょうか。でもね、次にいつ来るかわからない飲み水ですから、これは赤ちゃんに優先的に提供しました。私がそれ(物資供給の判断)をしました」

救援物資の配給について気を使ったこと

S「物資を配る際に一番気を使ったことはなんですか。一番大切にしたことはなんでしょうか」

A「もうこれは、弱い人が優先だよということです。私に任されましたので。赤ちゃんの水を確保しなければなりませんので、それだけは皆、理解してくれ、我慢してくれよと、頼みました。そのうちにようやく少しずつ水が届き始めたんですが、あるとき読売新聞とNHKが取材に来まして、『全国に報道するのに、何を一番伝えたいか』と聞かれましたので、とにかく水が欲しいということを伝えてくれるように頼みました。そして、3月20日付けの読売新聞の全国版で大きく記事が載ったんですが、そうしたらいきなり来ました」

S「水が全国から」

A「はい。すぐに送っていただきました。全国から来てくださった、諏訪の日赤や千葉の医療チームの先生方は、とにかく大災害の初動時は被災地に大量の水を持って行かなければならないと、実感したと言っていました」

T医師(以下T)「水さえあれば、2日は何とかなりますからね」

A「はい、そう言ってました。そして、2日間という時間があれば、日本の防災体制では、食料でも他の支援物資でも、だいたい全国どこへでも被災地に届けられるということでした」

F「2日間、水で我慢すれば後は何とかなると」

A「はい。でも今回は大変でした。やっと2日目の夕方にコップに1センチ程度の水を飲むことができました」

S「夏の地震だったら、大変だったのじゃないでしょうか」

A「もし夏だったら、2日の間に避難所で命をなくしていた方がいたでしょうね。そういうわけで、まずは水を確保するのに奔走しました。水は、避難場所には絶対に置くべきですよ」

F「この小学校の校舎は、今後また使う予定なのでしょうか」

A「ああいう大震災がありましたから、このような海の近くに子供を集めたということになりますと、今度は人災ということになりかねませんからね。当分それは据え置きで、現在は、他の学校の校庭に、仮設の校舎を建てようという計画がありまして、それを行政でやっています」

S「この小学校に通っていた子供達は、今は別の場所へ通っているんですよね」

A「はい。もう少し内陸部の中学校の校舎を間借りして、スクールバスで通って授業をしています」

S「この学校にいた子供や大人で、例えば津波の一波と二波の間に家に帰ってその間に津波によって命を落としたかたもいるんですか」

A「はい。この辺りの湾岸沿いの学校は全部津波でやられてますから、学校の先生方も、子供も避難が遅れて亡くなっています」

T「この学校は1階までの津波でしたが、場所によっては建物の3階まで津波に飲まれたところもあるんですよね」

A「女川町は全部津波にのまれたんです。七十七銀行では、行員が3階に避難してそれでも全部飲まれてしまったんです」

津波が来たときに一番大切なこと

A「とにかく、津波警報がでて、避難勧告が出たらちゃんと避難するのが鉄則なんです。自分で判断して、『たいしたことないや』って言って避難解除になる前に、港近くの人間は自分の家に帰ることが多かったんです」

T「いつもの津波警報だからたいしたことないや、と」

A「そうです。それが命取りになったんですね。私の住んでいるのは八幡町というのですが、ここでは36名亡くなったんです。そのなくなった方の亡くなった年齢は、まさにチリ地震津波(1960年)を経験した方達で、津波の恐ろしさを知っているはずの方達なんです。それが50年の間に、何度か経験したそのような恐ろしさがいつの間にか消えてしまって、『また津波か、まあ大丈夫だろう』という感じで、自分の判断で避難勧告を無視して家に帰ったのが命取りになったんです。早く逃げた者は助かったんです。とにかくこの場所は、地震があったら必ず津波がくると、絶対頭においておかなければなりません。」

2010年のチリ地震津波の経験をふまえて

A「あそこ(総合福祉会館)は、避難場所だったんですが1階は全部津波で飲まれてしまいました。避難場所なのに避難ができない場所だなんて皆さん不思議がるんですが、あのときあまりに地震の揺れが大きくて、『これはとてもじゃないけれど危ない』と判断して、避難所を放棄して、道路を挟んで北側のこの耐震工事をしている湊小学校に子供達を皆避難させたんです」

S「それは館長さんが、これまでに伝え聞いたことなどを参考にしての判断だったんですか」

A「いや、それは2010年2月28日に、チリ津波が来るよ、ということになって、みんなあそこ(総合福祉会館)に避難したんです。そのときに第一波がここまで30センチ来たんです」

F「津波が来たんですか?」

A「来たんです。だから高齢のみなさんが80人ぐらい避難してきたんです。そして夜11時30分頃解除になって、12名ほど残っちゃったんです。でも、2月28日の寒さの中、高齢の一人暮らしを家に帰す訳には行かなくて、急遽私の判断で泊まってもらったんです。それはそれで済んだからいいのですが、そういうときに皆さん、避難勧告が解除になっていないのに家に帰っているんですよ。その行動が今回、仇になったんです。これが自己反省もいいところです。避難勧告があったら必ず避難をして、解除になるまで、避難所にいなければならないんです。だから、私は今回は避難勧告が解除になるまで必ず避難所にいなければならないと、子供を親に返さなかったんです。お母さんはすぐにパニックになってしまって、車で逃げようとするんです。これは私が絶対にダメと、子供を渡しませんでした。お母さん方が私のところにベソかいて来たので、私が『車で帰らないでください』と、福祉会館の前に自動車を3、4台止めさせて体だけで小学校へ逃げなさいといいました。車は流されましたが、命だけは助かりました」

T「(総合福祉会館の前の道は)渋滞したんですか?」

A「ここはもう、渋滞ですよ。車で逃げようとして。そして、水がすぐそこまで来ているのにパニックになってしまって、車から降りようとしないんです。降りて逃げろと言ってるのに、逃げようとしないんです。そういう人たちがみんな飲まれてしまいました」

T「逆に、水がここまで来たら怖くて車の外に出られなかったのでしょうか」

A「そうかもしれません。怖くて体が動かなかったんじゃないですかね」

S「そのとき小学校に避難して、そういう渋滞した車が津波に飲み込まれるところをご覧になって、どのような光景だったのでしょう」

A「いやこれはもう、死の海ですよ。瓦礫だけじゃありませんからね。大型トラックがここにどんどん流れてくるんです。その勢いったら、電柱が倒れるんですから」

F「人間が乗っている車も飲まれて行くんですものね」

A「はい。色々なところにぶつかって、その衝撃で亡くなってる方が多くありました」

F「そうですか。じゃあ、溺死というよりも衝突が原因でなくなった方も多かったと」

A「それも含まれています。津波の水圧もあります。本当に津波を甘く見るとダメですね。言葉は悪いですが、仮にこれが大阪湾でおこったら、東京湾で起こったら、本当に大変だと思います。何処に逃げようったって、逃げようがないですから。これはかならずね、想定しないといけないです。和歌山と三重の日赤のチームが青くなって来ました。『全部教えてください』というので『何ですか』と聞くと、地元を出てくるときに、石巻の津波の規模と避難したときの様子をどうやって逃げたかとかよく調べてくるように言われたというんです。あそこは東海沖地震とか、大地震が想定されていますよね。今回のここの地震をみて、いままでの避難のシミュレーションでは通用しないということが分かったから、全部調べてくるように言われたそうです。本当に大変な災害で、お話ししようと思えば1時間でも2時間でもできるくらいです」

F「本当ですね。尽きないですね」

A「私たちはここで医療支援の方々に地域の情報をどんどんどんどん入れました。一刻でも時間を無駄にしたら、助からない人がいっぱいいるんですよ。がれきの下に」

F「本当に、生死の境目というものが時間の数分単位の中にあったわけですね」

A「そう、ありましたね。多いときでこの小学校の診療所に医療チームが4チーム入ったんです。そして、3チームはここにいて診療を行って、1チームは外に出て行って、がれきの下で、あるいは家の2階あたりで避難している人の様子を見に行っていました。でも、様子見るにしても場所が分からないですよ。地図がここにありますけど。ですから、町内会ごとに避難所に避難していますから、すると避難所で町内会のみなさんが「誰々の姿が見えないな」ということになるわけです。すると、あそこの家にまだ残っていて動けないのじゃないかということになるわけです」

F「じゃあそういう、避難所の町内会の情報をたよりに、たとえば独居の高齢者とか」

A「はい。その一人暮らしの方の姿が避難所に見えないとなれば、『じゃあ、行ってこよう』『ああ、いたいた』と、こうなるわけです。そしてまずは担架でつれてきて、この避難所で体の様子を先生が診察します。そしてここでは対応しきれないということになると、日赤にヘリコプターで救急搬送するわけです。私が覚えているだけで、20回は搬送されたんじゃないでしょうか」

F「ご遺体もこの場所に運ばれたんですか?」

A「いえ、ここにはご遺体は運ばれませんでした。遺体は別の場所、総合体育館というところで、身元確認をすることになっていました。生死をさまよった方もこの診療所にくるのだろうと、私は覚悟していたんですが、容態の悪い方は先生の判断ですぐに日赤病院に搬送されました。遺体は来ませんでしたが、お年寄りがとてもショックを受けているんですよ、先生方は相当気を使われたと思います」

S「子供たちもショックを受けていたでしょうか」

A「これは、お母さん方の安心が大切だったんです。そして、お母さん方の安心は何処で得たかというと、これは先生(医師)だったんです。小児科の先生と内科の先生がボランティアで来てくださって、その小児科の先生もまた地元の方で被災されているんですが、するとお母さん方は『ああ、ここに先生がいてくれる』と安心しているんです。すると、お母さんが安心しているから子供も安心するんですね。何にも怖くないんです。家族がいるから大丈夫と。そのような状況だったので(急性期に)精神的なケアを受ける方はいませんでした」

阿部さんは、1時間近くにわたって、地震発生直後からの避難所の様子を説明してくれた。

午後4時になり、湊小学校診療所の診察終了時間になった。この時間をもって、この診療所は閉鎖となる。この日は、4日間で一番多い、19名の患者が来室した。

診療が終わった湊小学校診療所。医師の常駐はなくなるが、今後も健康管理室として利用することになっている

診療が終わった湊小学校診療所。医師の常駐はなくなるが、今後も健康管理室として利用することになっている

カルテや医薬品など、診療所から運び出す荷物を車に移動した後、庄司本部長をはじめ、本部の方々と別れの挨拶をして、湊小学校を後にした。1日目よりも2日目、2日目よりも3日目にハエが減ったような気がしたのは、おそらく慣れてしまっただけのことなのだろう。

湊小学校正面玄関

湊小学校正面玄関

石巻日赤病院の合同救護本部に診療所の物品を返却し、我々の石巻圏合同救護班エリア7における任務は終了した。

***

地震と津波がこの町を襲った3月11日は、小雪が舞う寒い日だった。津波で屋根の上に取り残された老人の中には、凍死した人もいるという。時は過ぎて、私たちがこの石巻の診療所にいた7月の4日間は、真夏の暑さが続いた。地震から4ヶ月が経ち、がれきは着実に撤去されている。しかし、未だにこの避難所には150人が住み続けているし、398号線沿いの墓地の墓石は倒れたままだ。

湊小学校は地震と津波から1400人の命を救った。あの日、ここには命の境界線が存在した。この学校の教室に、再び子供たちの笑い声が響くことはないのかもしれない。しかしこの場所では、親を失った子供が、子を失った夫婦が、病を患う孤独な老人が、水や食べ物を分かち合い、互いの心を励まし合いながら困難の中を生きてきた。雪が舞う3月11日から、太陽の日が降り注ぐ夏の日まで。このどこまでも悲しく温かい営みは、世界中の人々の力添えとともに今この時も続いている。子を守り、子を失った湊小学校。ここで起こった出来事はきっと、あの日存在した命の境界線とともに、決して忘れられることの無い記憶としてこの場所にあり続けるのだろう。

あとがき

3月11日の地震と津波が東日本にもたらした被害の甚大さは、発災以来4ヶ月以上をすぎた今でも、連日のように報道されている。しかし、被災された人がどのような物を食べ、どのような匂いを嗅ぎ、何に感謝して、何に対して怒りを感じているのか。それは離れた土地からはどうしても知ることができない。被害の状況や、町の復旧の具合も、テレビや新聞、インターネットの情報だけでは得られるものがどうしても限定される。私が住んでいる関西では特に、東北と地理的に離れていることもあり、それぞれの人が多かれ少なかれ東日本大震災で被災した人たちのことを心配しながらも、今ひとつイメージが湧かないと感じていると思う。

「今度の震災は本当に大変だと思うけれど、何がどう大変なのかよくわからない。力になりたいのだが、どのようにすれば役に立つのかもわからない。正直なところ、南三陸町も、陸前高田も地理的な見当がつかないし…」

被災地から離れたところに住む人たちには、こういう思いを持っている人が多いのではないだろうか。被災地に医療支援に行くことが決まったとき、このような離れた所に住む人たちに、少しでも東日本大震災について実感を持ってもらうために、できるだけ詳細な記録を残したいと考えた。しかし、これを書き終えた今、その目論見がうまく行ったのかどうか不安でしかたがない。大自然の猛威の前では、言葉はどこまでも陳腐になってしまうし、写真はフレームの中におさめてしまうと、どこか報道写真の焼き直しのようになってしまう。

そういうわけで完成度に関しては甚だ疑問が残るが、私という一市民の目からみたこの記録が、かの地から離れて住む人に少しでも災害の実感を持っていただくきっかけになれば幸いである。少しでも多くの人に読んでもらうために、出来るだけ早く英訳版の作成に入りたいと思っている。

今回の被災地入りで一番印象に残っているのは、小さなコミュニティーのリーダーたちの姿である。リーダーというと、政治やビジネスをハンドルする大きな共同体の束ね役に目がいきがちである。しかし、人が本当に大変なとき、生死をさまよう状況になったときに重要なのは、人が手を伸ばして触れる距離で構成される小さな共同体のリーダーである。今回はそのことを本当に実感させられた。彼らの存在の仕方、彼らの決断が、ぎりぎりのところで共同体の生死を分つのである。彼らは、大きな覚悟を持ち、困難に直面してそこから逃げ出さず、共同体の短期的、長期的トラブルを解決し、仲間をいたわり、彼らと希望を語りあい、今も毎日、地域の再生のために奮闘している。まさに「市民の気概」をみる思いだった。

今回の記録作成には、石巻圏合同救護班本部の資料を参考にし、一部を引用させていただいた。また、今回の医療支援チームで同行した5人の協力のおかげで、この記録を残すことができた。ありがとうございました。また、この記録を公表する上では、140Bの青山ゆみこさん、大迫力さん、砂田祥平くんに貴重なアドバイスと大きな助力をいただいた。深く感謝します。

先日、湊小学校避難所本部の阿部さんと連絡を取ったところ、避難所内診療所が閉鎖した後は、2名の看護師が常駐し、避難者の健康管理をしてくださっているという。暑さが続き、熱中症で救急搬送された避難者が数名いたが、他の疾患も含めて、重症患者の出現はないということだった。仮設住宅への移住が加速しており、湊小学校避難所はまた新たな状況を迎えつつある。

「最後の一人が出て行くまでここでお手伝いします」

阿部さんは電話の向こう側の石巻で、そう言っていた。

東日本大震災で失われた多くの命に哀悼の意を捧げるとともに、被災された方、そして福島第一原発の事故で避難を強いられている方々に一日でも早く安らぎが戻ることを祈っています。

平成23年8月11日
佐藤友亮

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第4話「再スタートを切ろうとする女川町」

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7月16日(土)〈晴れ〉

■日本有数の漁港を持つ女川町の被害。

この日の午前中はT医師が診療担当のため、私とF看護師、U薬剤師は女川町の視察に行った。午前7時45分に松島の宿を出発。週末の朝の道路は平日のような混雑はなく、石巻河南ICまでスムーズに移動することができた。石巻市内から女川町へは、海沿いの国道398号線を北上していく。

途中で診療所にいるT医師から電話連絡があった。我々が使用しているワンボックスカーの中に、大阪から東北に持ち込んできた医療品のストックがある。その中から点滴用のルートを診療所へ届けてほしいということだった。この日も相当な暑さのため、点滴による水分投与が必要な患者が診療所へ来た時の備えである。湊小学校は女川町へと続く国道398号線沿いにあるため、途中で小学校に寄って診療所に点滴ルートの補充をした。

石巻湾を通り過ぎて一度内陸部に入った後は右手に万石浦が見える。ここは石巻湾に対して狭い入口の開いた内海で、もともと海苔やカキの養殖が盛んな場所である。海への入口が狭いことから被害が限定的だったようで、現在もたくさんの養殖用の筏が並んでいるのが見えた。

石巻市街地から万石浦、そして女川

石巻市街地から万石浦、そして女川

万石浦の内部。震災後の現在も養殖が行われているのが分かる

万石浦の内部。震災後の現在も養殖が行われているのが分かる

湊小学校から30分ほどで、女川湾に入った。平地が小さいためか、がれきの撤去は南三陸町と比較して進んでいる印象だが、こちらは大きな建造物の損傷が目立った。

女川湾の西側。横倒しになったビル(町立病院の高台より)

女川湾の西側。横倒しになったビル(町立病院の高台より

女川町は人口約1万人と、南三陸町(人口約1万7千人)と比較して小さい町だが、漁港設備は南三陸町の志津川漁港よりも規模が大きく、第3種漁港(利用範囲が全国的なもの)に指定されている。志津川漁港は第2種漁港(利用範囲が地元漁船を主とする第1種漁港と、全国的な第3種漁港の中間)である。高台に続く坂道があったので上って行くと、そこには女川町立病院があった。

町立病院の高台から、女川湾西側を望む。がれき撤去がほぼ終わり、かつて住宅地であったと思われる場所はほぼ更地になっている

町立病院の高台から、女川湾西側を望む。がれき撤去がほぼ終わり、かつて住宅地であったと思われる場所はほぼ更地になっている

7月27日現在の女川町の被害状況は以下のとおり(宮城県ホームページより)

死者数:520名
行方不明者数:416名
避難者数:625名
避難所数:10箇所
住宅・建物被害:3263件

女川町立病院の外観

女川町立病院の外観

女川町立病院は外観が新しく、町のサイズと比較して規模の大きな病院である。人口に対して漁港設備が大きいこと、そして東北電力の女川原子力発電所も有していることから、税収に恵まれた自治体なのかもしれない。外から見る限り、この病院は津波被害を受けていないように思われた。しかし、トイレを借りようと玄関から建物の中に入ると、外観からは想像もつかない病院内の被害状況に驚かざるを得なかった。

女川町立病院玄関ロビー。床一面にブルーシートが張られている

女川町立病院玄関ロビー。床一面にブルーシートが張られている

1階ロビーでは5、6人がチームになって、被害備品の後片付けを行っていた。中には外国人ボランティアと思われる男性の姿もあった。この病院の被害状況を知らなかった私は、撤収作業中の男性に大阪からの医療支援チームであることを伝え、被害状況の説明をお願いした。暑さの中、撤収作業に従事する人たちの邪魔をするのは気がとがめたが、外観からは決して想像のできないこの病院の被害の全容を聞かずにはいられなかった。

幸いにして、私が声をかけた男性は一人の女性に引き合わせてくれた。病院総務課の伊藤さんである。女川町役場の職員である伊藤さんは、震災前からこの病院に出向しているということだった。説明によると、女川町立病院は高台に立地しているにも関わらず、1階フロアまで津波被害に遭っていた。石巻にしても、南三陸町、そしてこの女川でも、平地での津波被害は、波だけではなく同時に押し流されてくるコンクリートや石、倒壊家屋、船舶、自動車、そのような物の激突による物理的な損傷がきわめて大きい。しかし、女川町立病院は高台に立地しているため、おそらく物の激突ではなく、水による被害が主だったのだろう。それで、外観上はそれほど大きな被害がないように見えたのだ。

海側から望む町立病院。低地は津波被害で跡形もない。この病院の1階部分まで津波被害があった

海側から望む町立病院。低地は津波被害で跡形もない。この病院の1階部分まで津波被害があった

伊藤さんの話によると、当時入院していた患者は上層階に逃げたため犠牲者は出なかったが、病院の南西側(海に少し近い)に併設している療養型病床群に入院していた高齢者が、逃げ遅れて2名犠牲になった。病院1階の医療機器、眼科や耳鼻科外来の検査機器、CT、MRI、X線撮影装置は軒並み全壊である。

病院1階にある栄養課の厨房施設。鏡に線が入っているところまで津波が来た

病院1階にある栄養課の厨房施設。鏡に線が入っているところまで津波が来た

津波の運んだ水、土、ゴミで再稼働が不可能となったMRI

津波の運んだ水、土、ゴミで再稼働が不可能となったMRI

津波によって破壊された外来待合室の壁

津波によって破壊された外来待合室の壁

病院は、現在も10名程度の入院患者を受け入れつつかろうじて診療を継続している。2階部分に仮設の外来診療ブースを作り、そこで外来患者の診療も行っているということだった。

女川町立病院は医師の安定的確保と経営再建のため、病院指定管理者として自治医大系の公益社団法人「地域医療振興協会」を選定し、この4月から経営を移管する予定だった。しかし、東日本大震災の影響でその業務移管は半年間延期された。この10月から女川町立病院は、再スタートを切る予定である。

被害状況を詳しく説明してくださった後、伊藤さんはこの地域の新しい医療構想について語ってくれた。

「高齢者率が30%を越えており独居老人も多いこの地域では、医療者が病院で患者を待ち構えているだけでなく、すすんで患者のもとへ出向いて行かなければなりません。状況は本当に大変ですが、この小さな町だからこそできる、医療、福祉、役所が一体となった新しい医療システムを作ります。これまでの全国の皆さんの支援に本当に感謝しています。きっといい町になります」

力強い言葉だった。

女川町立病院の伊藤さん。奥の方は事務長さんである。手前のキッチンカーは阪神大震災でも活躍した。中には充実した厨房設備が搭載されている

女川町立病院の伊藤さん。奥の方は事務長さんである。手前のキッチンカーは阪神大震災でも活躍した。中には充実した厨房設備が搭載されている

■仮設住宅。被災者の入居がなかなか進まない理由。

石巻市街までもどって昼食をとり、午後からは湊川小学校診療所で診療を行う。午前中は熱中症疑いの患者さんが1名来た。幸い軽症でありイオン飲料の経口摂取で対応できたということだった。

午後は、避難所内で生活している70歳代の男性が来室した。口腔粘膜に発疹があり、4月からこの診療所に時々診察を受けに来ている。皮疹の様子と降圧薬の内服をしていることから、薬剤性の扁平苔蘚と診断されていた。

降圧薬の変更と、以前この診療所で処方を受けた薬を塗ることで口腔内の皮疹は改善したが、下唇のかゆみと皮疹が続いているために来室した。口の様子を見ると、粘膜面には異常がなく、下唇の左側がやや腫れており、小豆大で中心部がうす赤く染まる平らな発疹を認める。診断は扁平苔蘚で間違いないものと思われた。口腔内の病変は、以前診療所で投与された軟膏で改善したということで、現在は薬は使用していない。下唇の皮疹に塗ってもらうものとして、ステロイド剤の軟膏を処方した。

「昨日、仮設がようやっと決まったんだけどな」

U薬剤師が薬を渡すと、老人がそう言った。こちらから尋ねた訳ではなかったが、老人はゆっくり話し始めた。

「仮設当たったの二度目なんだけどな、一度目はほれ、あんまりに不便な場所だから断ったんだ。でも、二回目も断るってもの良くないなあと思って、昨日下見に行ってな、決めてきた」

「仮設の場所、かなり不便なんですか」

「不便も不便、大変だ。家も流されたけど、車も流されたから。津波収まってから流された車探しに行ったら、墓石の上さ乗っかっててな。もう処分してもらったけどな。やっと中古車、買ったんだけんども。まあ、車あっても、あそこは大変な場所だなあ」

「仮設住宅への入居が進んでないみたいですけど、やっぱり不便なところ多いんですか」

「不便だなあ。民間のアパートも探したけど、人の足下みて値上げしてんだ。だいたい普段より二万ばかり高いんでないかな。普段6、7万円の物件が、2万くらい高い。足下みてんだよ」

「そりゃひどいな。どの辺りですか」

「(三陸自動車の)インターチェンジの、あれよりも少し先のあたり」

「この診療所は明日で閉まるけど、この後血圧の薬をもらう病院はもう決めていますか」

「いや、まだなんだよ」

老人には、現在使用している薬剤を記載した紹介状を渡した。仮設住宅への入居が思うように進んでいないというニュースは被災地入りする前から聞いていたが、その原因がよく分からずにいた。NHKのラジオ報道では、震災関連業務を多く抱えた自治体では、仮設住宅への入居調整にまで人員を割くことができず、思うように入居率が上がっていないという説明をしていた。7月9日付けの毎日新聞の報道によると、7月1日現在で

岩手県:仮設住宅/9919戸/入居率72%
宮城県:仮設住宅15756戸/入居率61%
福島県:仮設住宅9212戸/入居率60%

となっている。

石巻市周辺の様子を見ていると、所々に仮設住宅は建設されているが、見るからに不便な場所に立地したものが多かった。診療所に来室した老人のように、仮設住宅への入居を考えている被災者は多くの人が家とともに自家用車も失っている。

避難所では食事の提供を受けることができるが、仮設住宅では食事の用意は自分でしなければならない。元々、他の土地に移り住むことが難しい老人が避難所に残っているケースが多く、これらの人たちが利便性の低い仮設住宅への入居を渋るのは当然のことである。

湊小学校避難所は比較的人の出入りの多い場所に立地していることから、仮に避難所内の診療所が閉鎖しても、通院が必要な被災者にとっては(少なくとも仮設住宅よりは)便利である。食材や食料の宅配サービス、病院通院バスの導入、保健師や医師の訪問診療体制の整備を進めなければ、被災者の仮設住宅への入居は進み難いだろう。

避難所は立地としての利便性はそれなりにあるとしても、本来人間が住む場所ではない学校の教室や体育館である。7月の現在は高温による熱中症や、食中毒が危惧されるが、東北の厳しい冬を迎える前に、高齢者を中心としたサポート体制を確立し、速やかに仮設住宅への移動を進めてほしい。この日の患者数は10名だった。

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第3話「北上川を眺め、足がすくむ」

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7月15日(金)〈はれ〉

■湊小学校避難所の朝。避難室ごとの代表が集まる班長会議。

2日目の朝は前日よりも20分遅い午前6時40分に松島を出た。しかし、この朝は一般道、高速道路ともに渋滞が激しく、湊小学校避難所に到着したときには8時を数分過ぎていた。とくに三陸自動車道の混雑が激しかった。ラジオをつけても事故の知らせは無く、自然渋滞のようだった。

避難所の班長会議には医療チームの代表として私が出席した。前日と同様、出席者へ診療時間を伝え、暑さが続いていることから熱中症への注意をお願いした。

この日の班長会議の議題は、1. 平原綾香コンサートへの招待について。2. 支援物資の管理方法について。3. 朝の班長会議の回数を減らす可能性について、であった。

1.については、コンサート主催者より湊小学校避難所に対して50名の招待があった。参加希望者が50名を超える場合は、抽選で参加者を選ぶことになる。その場合は避難所本部ではなく、主催者側で抽選を行うらしい。

2.の議題は議長からの提案だった。これには前提として、避難所への支援物資は全員で情報を共有し、公平に分配するという取り決めがある。議題はその前提に基づき、支援物資を「共同管理物資」と「個人管理物資」に区別しようというものだった。

全国からの支援物資には、(1)(本部長宛か、あるいは宛名なしで)避難所全体に対して送られてくるもの、(2)避難所内の誰かが、特定の用途と経緯で特に必要だと考え、その要望に応じて送られてくる個人宛の物資がある。議題は、このうち(1)を「共同管理物資」、(2)を「個人管理物資」と名付けて区別しようというものだった。

(1)については、そのまま被災者全体に分配すれば問題ないが、(2)については、物資の受け取りから分配までの流れを確認しておかないと、トラブルの元になる可能性がある。

たとえば避難所内に住んでいるAさんが、校舎内の廊下を歩く来客用の上履き(ほとんどが家庭用の布製スリッパ)の老朽化に気がついたとする。数も足りない。被災者の中には個人用の上履きを持たずに、来客用の上履きを使用している人もいる。汚れたスリッパを使い続けることは、個人および環境の両面において衛生上の問題がある。

このような経緯で、Aさんが上履きとしてゴム製のサンダルを支援物資としてお願いし、それが避難所へ届く。これが、「特定の用途と経緯」で送付された支援物資である。もしこのサンダルを(1)の物資と同様、ただ公平に被災者全員に配るだけでは、使用用途もバラバラになってしまい、せっかくの支援物資を有効に活用することができない。

すべての支援物資は、避難所本部から被災者全員に公平に配ることが前提だが、(2)の様な物資を有効に利用するためには、物資が届いた時点で、支援物資依頼者が物資の到着をきちんと確認し、本部に対してその使用用途を説明する必要がある。

問題は、「特定の用途と経緯」を持って送られた支援物資が、物資依頼者を通さずに配られてしまった場合におこる。おそらくこのような議題が持ち上がったのも、何らかの事例があってのことだろう。

また、避難所には、そこで生活している個人宛にも(親戚縁者などから)見舞い品などが届くと思われる。共同生活をしている被災者の間で、受け取る見舞い品の量や質において大きな偏りが出てくれば、それは当然トラブルの元になるだろう。物資管理の問題は、避難所での共同生活をできるだけトラブルが少なく、円滑に進めるために重要な議題である。避難所運営がいかに一筋縄では行かないかを垣間見た出来事だった。

3.の議題は、班長の一人から提案があった。避難所生活も落ち着いてきていることから、毎日行われている午前8時からの班長会議を減らしてみてはどうかという提案である。週に3回程度まで減らすのかと思って聞いていたが、まずは週に一度会議を行わない日を設定してみるということになった。

日曜日を会議非開催日にしてはどうかという意見があったが、日曜日は避難所のイベント開催が多く、連絡会議を持つ必要があるという意見が出て、結局月曜日に会議を行わないということが決まった。

班長会議の議長役を務めている避難所本部長の庄司氏は、会議中常に穏やかな口調で語る。しかし、そのゆっくりとした語り口やトーンの端々から、氏が強いリーダーシップを発揮していることが感じられた。型にはめすぎた提案をせず、口数の少ない参加者からぽつりぽつりと出る意見を待ち、合意形成まで持って行く。強いリーダーシップと、忍耐強い会議運営。一見矛盾しがちな二つを共存させている庄司本部長の手腕が印象的だった。

■診療所第2日目。

この日の午前中は5名ほどの患者が来室した。日焼けのし過ぎで来室したのは28歳の男性。身長は約175センチ。痩身で、はきはきとよくしゃべる。避難所で生活している被災者ではなく、近隣の自宅に住んでいるということだった。湊川小学校診療所を利用する人の3分の1から半分近くは、このように近隣の自宅に住みながら被災した「Bグループ」にカテゴライズされた人たちだった。

2日前に裸で昼寝をしたところ、気がついたら体の前面(胸腹部、大腿、下腿の内側)が真っ赤に日焼けしていた。自然に収まるかと様子を見ていたが、火照りがとれないため来室したという。顔も含めた体の前面の発赤が強い。顔面は赤みが落ち着いてきているが、前胸部腹部はいまだに熱感がある。全体に水疱形成は無いのでⅠ度の熱傷である。

「みんな仕事がなくなって大変ですよ、ほんとに」

からからと明るい口調で、火傷の若者が言った。石巻市湾岸部のこの地域に住んでいる若者は、漁業や海産物の加工など水産関連の仕事をしている人間がほとんどである。津波で職場を失われた人は、多くが仕事復帰の目処がたたないという。

「会社を経営してる友達も、『職員じゃなくて俺がニート』って言ってますよ」

若者は、日焼けした顔で言った。石巻の漁港設備は、かつては北上川河口の川口町にあったが、その後は魚町にある現在の外港に移転した。前日に視察したが、外港で海に直接面した漁港設備は、壊滅的な被害を受けていた。今後はどのような形で石巻の水産業が復旧して行くのか想像もできないと、若者は言っていた。

魚町にある石巻漁港の市場。地盤沈下によって1階部分が水没している

魚町にある石巻漁港の市場。地盤沈下によって1階部分が水没している

若者の火傷は、診療所にあるステロイド剤を塗るには範囲が広すぎた。日焼けから既に2日が経過していることから、よく冷やして風通しを良くすることで数日で落ち着くだろうと話す。可能であれば、皮膚科を受診して処方を受けるように言った。

彼自身がどんな仕事をしているのかは最後まで分からなかった。平日の昼間に火傷をするほど外で昼寝をしてしまうという状況から言って、(そしてさらに平日の昼間に診療所を訪れるという状況から)彼自身もまた津波で仕事を失った人間の一人なのかもしれない。

■南三陸町の様子。がれきの損傷度が示す、とてつもない津波の威力。

私の担当だった午前中の診察終了後、南三陸町の被害状況を見に出かけた。診療所の午後はT医師が診察を担当することになっている。F看護師、U薬剤師と3人で回転寿し屋で昼食をとってから、南三陸町へ向かった。宮城県北部に位置する南三陸町は、旧志津川町と歌津町の合併により2005年に誕生した。人口は約1万7千人(発災前)。東日本大震災では津波による大きな被害が出た。

「一瞬で町が失くなりました。」

3月23日に発表したメッセージで、佐藤仁南三陸町長は今回の津波被害をそのように表現した。7月22日現在での被害の状況は以下のとおりである(南三陸町プレス発表資料(7/22)より一部抜粋、修正)。

【避難人員(集団避難を含む)】
計2,536人
町内1,899人/町外 637人

【避難所(民家の避難箇所を除く)】
計62箇所
町内19箇所/町外43箇所

【搬入遺体数】
7月21日現在で547体(うち身元確認済み 449体)

石巻河南ICから桃生津山ICまで三陸自動車道の無料区間を北上し、そこからは国道45号線を通って志津川湾へ向かう。

宮城県沿岸北部(石巻から南三陸町)の地図

宮城県沿岸北部(石巻から南三陸町)の地図

両側を木々に囲まれた山道から海に向かって視界が開けると、とたんにがれきが現れ始めた。平地を縁取る森林部は、津波による塩害で外縁部が茶色く枯れている。

南三陸町。津波によって立ち枯れた林を縁取る木。電信柱が傾き、建物は基礎部分が残っているだけで形が無い

南三陸町。津波によって立ち枯れた林を縁取る木。電信柱が傾き、建物は基礎部分が残っているだけで形が無い

志津川湾内部は、ほぼすべてが壊滅しており佐藤町長の言葉通り、完全に町は失われていた。

南三陸町。志津川湾から続く平地部分は建物のほぼすべてが壊滅しており、移動する自動車以外に人の姿は見えない。右上方向が海

南三陸町。志津川湾から続く平地部分は建物のほぼすべてが壊滅しており、移動する自動車以外に人の姿は見えない。右上方向が海

報道で広く取り上げられている公立志津川病院は、海のすぐ近くにたっており、湾岸部から300メートル程しか離れていない。津波到来時は、5階建ての建物の4階までが浸水した。避難誘導中の4名の病院スタッフと、67名の入院患者が命を落とした。

公立志津川病院。玄関に自動車が突き刺さっている

公立志津川病院。玄関に自動車が突き刺さっている

志津川病院から、さらに海に近づいて行く。建物の基礎部分が残っていることから住宅が並んでいたことが想像される。

堤防から約200メートル内陸部にあった自動車。衝突事故では考えられないほど損傷が激しい。黒い車の下に、もう1台白い車がある

堤防から約200メートル内陸部にあった自動車。衝突事故では考えられないほど損傷が激しい。黒い車の下に、もう1台白い車がある

住宅地の瓦礫の中で見つかった、ランドセルと音楽の教科書

住宅地の瓦礫の中で見つかった、ランドセルと音楽の教科書

決壊した堤防。「青い海 みんなで守る 思いやり」「汚すまい この海この浜 この港」堤防にはこんな標語が書いてある

決壊した堤防。「青い海 みんなで守る 思いやり」「汚すまい この海この浜 この港」堤防にはこんな標語が書いてある

堤防の上にあがり、海側からみた町の様子

堤防の上にあがり、海側からみた町の様子

町の基幹産業である、志津川湾近海を中心とした漁業と養殖業は完全に壊滅している。明治、昭和の三陸大津波をはじめ歴史上何度も津波の被害にあってきたこの地域は、今回の津波被害からどのように復旧、復興を進めるのだろうか。より強固な堤防を建設し、同じ場所で同じ産業を蘇らせるのだろうか。

一つ一つの町には、その土地それぞれにおいて地理的に定められた運命がある。この場所は、百年から数百年に一度、大きな自然災害に晒される運命とともにある。そして、この運命を背負った土地に生きてきた人、この運命を背負った土地でしか生きられない人、ここしか帰ってくる場所のない人がいる。

南三陸町は現在、震災復興計画の策定に取り組むとともに、計画に地域住民の意見を取り入れるため、震災復興町民会議を設置した。津波という運命を背負ったこの町の人たちが、「いま」を生きる現住民と、町の未来を受け継ぐ後世のために、何を受け入れ、また、何に立ち向かうのか。それを見続けて行きたいと思うし、見続けなければならない。

なぜなら我々は、南三陸町の人たちと何ら変わりなく、形を変えてそれぞれの運命のもとに生きて行かなければならないからだ。南三陸町が直面しているこの大きな難局は、この地球上に生きているすべての人間がそれぞれに引き受けざるを得ない運命の一形にすぎない。彼らの問題は、私の問題に他ならないのだ。

■多くの犠牲者が出た大川小学校。静かな大河を前にして足がすくむ。

石巻市立大川小学校を見るために南三陸町から石巻へ戻った。志津川湾から海沿いの国道398号線を南下するルートは、新北上川(追波川)にかかる新北上大橋が通行できないため(図)、新北上大橋の南岸にある大川小学校へは内陸部を迂回する必要があった。そこで、志津川湾から国道45号線を桃生津山ICまでもどり、三陸自動車道を河北ICまで南下。追波川南岸沿いを川下に向かって東に走った。

現在も通行止めとなっている新北上大橋は追波川河口から約4kmに位置。大川小学校はその河口側(東側)の低地にある

現在も通行止めとなっている新北上大橋は追波川河口から約4kmに位置。大川小学校はその河口側(東側)の低地にある

大川小学校で多くの児童が犠牲になったことは、震災直後からマスコミで大きく取り上げられている。被害の大まかな経緯は以下の通りである。

大川小学校では、地震発生後の津波によって全校児童108名中74名が死亡・行方不明となった。教職員の死者・行方不明者も10名を数えた。地震発生直後、児童は教諭の指示によって校庭へと避難。地域住民と教頭らが相談の上、低地になっている小学校から、新北上大橋たもとの高台に避難することを決断した。その避難途中で、津波が児童と誘導していた教職員を襲った(下図)。

大川小学校児童と教職員の避難経路

大川小学校児童と教職員の避難経路

現場にいた職員のうち唯一生還した40台の男性教諭によると、学校のすぐ裏に山があるが、地震による倒木の危険があり、避難場所に適さないと判断されたということだった(4月9日付け時事ドットコム)。教職員に誘導され、川に向かって避難した児童は、逆流する大河に飲み込まれて命を失った。津波が到達したのは午後3時36分頃、地震発生からすでに約50分が経過していた。こちらが新北上大橋と、津波到来で東から西に向かって逆流する追波川の映像である。

児童が避難するはずだった橋のたもとの高台は完全に津波に飲み込まれている。我々は、この映像の中で冠水している県道30号線を通り、大川小学校へ向かった。

 

途切れたままの新北上大橋。県道30号線から河口側へ向かって撮影。小学校は、この橋を越えた左側(南西)に位置している

途切れたままの新北上大橋。県道30号線から河口側へ向かって撮影。小学校は、この橋を越えた右側(南東)に位置している

校舎の一部だけが残る小学校。がれきの撤去作業が行われていた

校舎の一部だけが残る小学校。がれきの撤去作業が行われていた

高台になっている新北上大橋のたもとから、東側に向かって小学校を見下ろすような位置に、花や飲み物などを捧げる供物代が置いてあった。そこには、震災前の小学校の姿をおさめた写真が掲げてあった。

震災前の大川小学校。上の写真において、震災後も残っている茶色い屋根の校舎はこの写真の中央左側に写っている

震災前の大川小学校。上の写真において、震災後も残っている茶色い屋根の校舎はこの写真の中央左側に写っている

宮城県の第3次地震被害想定調査において、津波到達は海岸から3キロまでと予想されており、河口から4キロ離れている大川小学校は避難所に指定されていた。6月18日、石巻市教育委員会は、同市内で行われた合同供養式において、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した二次避難先が明記されていなかった点について責任があると認め、父母に対して謝罪した(2011年6月18日付け読売新聞)。

高台から大川小学校を見下ろすと、左に大河が流れ、それとほとんど変わらない高さに小学校がある。震災前の写真によると、そのさらに河口側には同じ高さに集落があったが、現在は見る影もない。小学校の南側は山である。こちらもまた大きな地震があれば土砂災害の危険がある。実際に、発災直後現場では山に避難した際の倒木を心配したという。最終的に橋のたもとの高台に逃げ始めたのは、地震発生から40分が経過した後だった。そのとき教師たちは、どのようなことを話し合っていたのだろうか。ラジオを聞くことはできていたのだろうか。津波の到来はどの程度想定できていたのだろう。

この自然に対してあまりにも無防備な土地を前にして、静かな大河の流れを見ていると足がすくむ。誰も攻めることはできないのかもしれない。しかし我々は、何も知ることのない「未来」を前にして適切な判断ができなければ、大切なものを、いとも簡単に失ってしまう。

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第2話「石巻漁港、そして松島を歩く」

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7月14日(木)〈晴れ〉

■避難所内での診療第1日目

石巻の予想最高気温は31℃。前任のF大学チームのアドバイスに従い、午前6時20分に宿を出発した。朝8時から開かれる避難所の班長会議に出席するためである。JR松島駅近くの宿から松島北ICまでの国道45号線が、既にこの時間で渋滞している。自動車はトラックやワンボックスカーが多い。石巻での復旧復興作業に従事する人間が松島に滞在するというパターンが多くあるようで、国道沿いには

「全国からの復旧支援のみなさまありがとうございます。どうぞ気をつけて」

という横断幕が貼られていた。一般道、高速道路ともに断続的な渋滞があったが、石巻港ICを過ぎると車の流れはスムーズになり、結局石巻河南ICには午前7時に着いた。湊川小学校避難所のゴミ処分状況が分からなかったことから、避難所までの途中にあるコンビニエンスストアの駐車場で、宿で用意してもらった朝食の弁当を食べた。

午前7時50分頃に湊川小学校に到着し、全員で班長会議が行われる理科室へ行く。この理科室の天井には、津波が来た際の波の高さが、壁のシミとして残っている。

湊川小学校理科室。壁と梁に残るシミが、津波の大きさを表している。

湊川小学校理科室。壁と梁に残るシミが、津波の大きさを表している。

 

予定時間の5分前に、班長会議が始まった。司会進行は、避難所本部長の庄司慈明氏である。庄司氏は地域の自治会長であり、市会議員をつとめている。湊小学校避難所は、写真のように一階が津波で浸水したため、校舎の2階から4階の教室が避難部屋となっている。基本的に町内会単位で教室に入り、教室ごとに班長を選出して、その班長が毎朝の会議に出席することになっている。

会議の冒頭で、この日(7月14日)より診療所を担当する医療チームとして挨拶をした後、駐在医師の診療担当科(内科)、診療時間を伝えた。

■避難所内の様子。

会議出席後、2階東端の診療所で午前9時からの診療開始に備える。窓を開け、4台ある扇風機にスイッチを入れた。その後、軽く床の掃き掃除をした。9時までまだ少し時間があるので、T医師の提案で避難所内の様子を挨拶がてら見回ることにした。

平日の避難所は静かである。子供たちは学校へ行っており、仕事を持っている人は出勤しているので、避難所に残っているのはほとんどが高齢者だった。若者は、本部の手伝いをしているボランティアが数名いる程度。

避難所内の一室(許可を得て撮影)

避難所内の一室(許可を得て撮影)

教室内の様子を軽くのぞきながら廊下を歩いていくと、T医師が立ち止まった。

「この部屋、子供がいるね」

教室の前で上履きを脱いで中に入ると、小学校4年生くらいの子供が窓際で眠っていた。朝から38℃台の発熱があるという。

「耳だれがあるんで、耳鼻科に連れて行こうと思っているんです。前にも同じようなことがあったので」

寝ている子供の隣に座っている父親が言った。以前にも中耳炎で耳鼻咽喉科に通ったことがあり、今回も行ってみるということだった。受診を考えている耳鼻咽喉科に休診などの不都合があれば、いつでも避難所内診療所に相談に来てもらうように伝え、部屋を出た。

午前中3時間の診療時間中は、5名ほどの患者が来室した。高血圧等の慢性疾患に対する治療薬をもらいに来た人がほとんどである。カルテを見ると震災前からの内服薬を継続するために来室した人もいるが、震災後に高血圧を指摘されて治療を始めた人もいる。調剤薬局に提出する処方箋を発行するとともに、今後の通院先となる医療機関宛に紹介状を記入した。多くの人が、この診療所が閉鎖した後の通院先をまだ決めることができないでいた。

時間を持て余し気味のT先生、看護師のFさん薬剤師のU氏は、3人で1階廊下にぶら下がるハエ取り紙の交換をしに行った。

「体育館で絵の具を使ったパフォーマンスがあります。ぜひどうぞ」。音の少ない避難所に、ときおりこのような一斉放送が流れる。

午前中の診療終了後は車で市街地まで戻り、看護師さん達の希望でユニクロへ行った。診療中に身につけるTシャツを買うためである。避難所内は医療チームが白衣を着て廊下を歩くのはむしろ物々しく、異物感が強すぎる印象があった。発災害から4ヶ月が経過した避難所では、生活空間の中を白衣の人間が闊歩するということが、あまり好ましくないように思われた。Tシャツやポロシャツ等の軽装のうえに、医療チームであることを示すベストを羽織るくらいがちょうど良い。私もユニクロで、診療中に穿くための薄手のスボンを1枚購入した。

昼食後は午後2時から午後の部の診療を開始する。天気は快晴で、体感では予想気温の31℃を超える暑さだった。

「避難所に大量の氷がとどきました。氷は溶けてしまえばただの水。遠慮しないでもらいにきてください」

こんな一斉放送が流れた。午後は4名の患者が来室。一人に対して、破傷風トキソイドの注射を行った。倒壊家屋の撤去作業中の男性で、木の大きな板を大腿で折っていたところ、錆びた釘が1センチほど腿に刺さったという。診療所に来たとき既に血は止まっていて、局所の消毒とともに上記の注射を行った。

夕方近くになり、再びT医師の発案で、発熱していた子供の様子を見に行くことにした。子供が寝ていた教室の中をのぞくと、子供は元気そうな様子で父親の横に座り、ポータブルゲーム機で遊んでいた。外から見て大きな問題はなさそうだと判断し、教室内までは入らず診療所に帰った。

■ 安否確認、求人情報、メッセージ。避難所には多くの掲示物がある。

避難所内の廊下には多くの掲示物がある。診療所のある2階の家庭科室の周りには、行方の分からない人の安否情報を求める掲示や、逆に自分の避難場所を誰かに知らせるための掲示が貼られている。

発災直後は電気通信網が完全に遮断されていたことを考えると、この掲示だけが、被災し離ればなれになったもの同士の連絡手段だったのだと思われる。震災から4ヶ月が経過し、1階の本部近くには求人情報も貼られていた。石巻は市の基幹産業である水産業が津波によって壊滅的な被害を負った。産業の基盤が失われたことで、経営者には、従業員の解雇という選択肢が避けがたい現実としてのしかかっている。

避難所一階本部近くに貼られた「求人お知せ」

避難所一階本部近くに貼られた「求人お知せ」

校舎東側の階段から2階にかけての壁には、日本全国、そして世界中から避難所に寄せられたメッセージが掲げられている。その中にこのような手紙があった。

避難所2階に貼られているメッセージ

避難所2階に貼られているメッセージ

支援物資に添えて言葉やメッセージを送ることにどれほど意味があるのだろう。私は被災地に来るまでそう考えていた。「希望をすてないで」とか、「共に生きよう」というようなメッセージは、被災者にとってかえって迷惑なのではないか。被災地に来るまでそう思っていた。

しかし、避難所で実際に目にしたのは、家族と家と職を失った人が、逃れられない現実の前で立ち尽くしている様子だった。どこにも逃げることができず、順番に風呂に入り、洗濯をして、配給の弁当を食べている。支援物資はたくさん供給されている。しかし、形ある物はすべてが通り過ぎていく。物は消費されて、何処からか何処かへと消えてしまう。

ここに来てわかったこと。それは、被災者にとっては、物資さえもが逃れられない「現実」の一部なのだった。そして、大切なものを失った人たちを支えるには、現実だけでは足りない。私は被災地に来てそれを初めて知ることができた。身も心も弱った人、顔も知らない誰かを勇気づけることができる言葉がこの世の中には存在する。そのような言葉を発することができる人間が、この同じ世の中を生きている。

■石巻漁港の甚大な被害。

午後4時に診療所の診察が終了。この日の患者数は9名だった。診察終了後、石巻漁港周辺を視察する。湊地区からさらに海に近い、魚町へ向けて走って行くと、未だに信号は点灯しておらず、粉塵予防のN95マスクをつけた警察官が交通整理をしている。港湾部へ入っていくと、そこは歩行者の全く存在しない、廃墟だった。

海に面した建造物。手前の建物は、構造体が崩壊している

海に面した建造物。手前の建物は、構造体が崩壊している

同じく石巻漁港の様子(魚町2丁目)

同じく石巻漁港の様子(魚町2丁目)

石巻の湾岸部は地盤沈下が著しく、現在でも満ち潮では一部の地域に浸水がある。大潮の時期はさらに浸水は激しくなるという。湾岸部の少し北側を東西に伸びている県道240号線沿いには、大きながれき置き場がある。石巻地域の基幹産業である水産業を担っていた魚町地区の建物は、発災後4ヶ月を経過しても、復旧どころかがれきの撤去さえままならない状態だった。

■松島。この町は、海に浮かぶ島々によって守られた。

漁港地区の様子を見た後、松島への帰路についた。午後4時半の時点で、すでに石巻市内の道路は混雑し始めている。約1時間ほどかかって松島へもどり、宿舎に荷物を置いてから、松島の海岸沿いを歩いてみた。

松島町は、海岸付近に点在する島々が津波の威力を和らげることで、比較的被害が少なく、国宝の瑞巌寺、重要文化財の五大堂も大きな損傷は受けなかった。瑞巌寺は発災直後には避難所として被災者の受け入れも行っていたという。

臨済宗瑞巌寺は伊達政宗が慶長14年(1609)に完成させた寺であるが、元々は天長5年(828)に創建された天台宗延福寺である。大震災をものともせずに存在し続けるこの寺をこの地に建立した古人の才知には感服するばかりである。

この寺が建てられたのは、日本に議会制民主主義が誕生するよりも1000年以上前のことだ。いったい我々、あるいは我々の意思決定システムは、今この日本の海岸線において再び大災害に耐えうる「延福寺」を建立できる才知を果たして持ち合わせているのだろうか。被害が比較的少なかった松島町でも、海沿いの店舗は津波の被害にあっており、いくつかの店舗は閉鎖したままになっていた。

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第1話「大阪を出発。想像以上だった被災地。」

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7月11日(月)〈晴れ〉

■出発前打ち合わせ。

午前10時、医学部付属病院の事務室に石巻への医療支援メンバーが招集された。派遣メンバーと長机を挟んだ形でクールビズの事務方がずらり8人並びそろうと、担当課長のS氏から今回の派遣概要が説明された。

石巻市合同救護本部の指示のもと、近畿ブロック4大学の医療支援チームがローテーション方式で現地4日間の活動を行っている。派遣チームの構成は、医師2名、看護師2名、薬剤師1名、事務方1名の計6名。我々の医療活動は7月14日から17日までであり、その期間を挟む7月13日と18日が移動日となっている。7月13日は現地まで移動した後、我々の前チームとして活動しているF大学と引き継ぎをする。

石巻市内の医療体制は開業医を中心に復旧が進んでおり、5月から行っているこの短期医療支援は、我々の派遣を持って一旦終了するということだった。大阪大学は近畿ブロック4大学の幹事校となっており、今回の派遣は医療支援とともに、救急診療所の撤収作業も任務の一つとなっている。医療活動最終日の7月17日には、診療所と宿の後片付けのために大学の事務方4名が別に現地入りする。

今回の派遣はボランティア活動ではなく、大学病院からの出張業務である。病院から要請があった各部署(内科系診療科、看護部、薬剤部、および事務部)で人選をし、近畿ブロック内で割り当てられている日程において、チームを派遣する(今回は阪大病院からの4回目の派遣である)。派遣に際して特別な損害保険に加入するということはなく、万が一の事故の場合は労災として扱うということだった。そのような経緯から、派遣メンバーは、病院および大学の常勤職員が対象になっている。

大学病院は医師の常勤職員が非常に少なく、特に若手医師の場合は、ほぼ全員が臨床研修医、非常勤職員または大学院生である。私が所属する医局でも、若手医師の中では「ぜひ医療支援に参加したい」という者が数人いたが、そのような人間は大学からの派遣チームに入る資格を有していなかった。万が一の場合の補償など様々な問題はあるだろうが、このような貴重な意思が大学病院からの支援体制に反映されないのは残念なことである。

大学当局はその後、大学院生などの若手医師を対象に、2〜4週間という比較的長期間の医師派遣を考慮しているということだった。(注:8月になり、近畿地区の大学病院から岩手県宮古市へ医師の継続的派遣が行われている)

7月13日(水)〈晴れ〉

■石巻へ出発。

午前8時45分、新大阪駅の新幹線西改札口で医療支援チームの6人が集合した。9時7分発のぞみ220号に乗り、車内でお互いに自己紹介を行う。今回の派遣チーム内でもともと顔を知っていたのは、私とF看護師だけだった。私とFさんにしても、病院の当直業務の際に何度か顔を合わせたことがあるだけである。職員数約1800名。組織としての大学病院の大きさを改めて思い知らされる。メンバー構成を簡単に記すと、以下のとおり。

M氏(事務)40歳代
T医師 40歳代
佐藤(医師)39歳
F看護師 40歳代
S看護師 20歳代
U薬剤師 20歳代

最年長は事務のM氏。対外的な連絡業務全般、撤収作業の指揮を担当。2名の内科医師は、T先生と私。T先生は糖尿病が専門で、学年は私の5年先輩になる。私の専門分野は血液疾患である。2名の看護師のうち、Fさんは大阪市内の病院に長く勤めた後、6年程前から大学病院に勤務している。もう一人の看護師Sさんも公立病院の病棟勤務を経て、3年前に大学病院に就職した。ふたりとも病院の内科系病棟ナースである。最年少はU薬剤師。病院では外科系病棟の受け持ち薬剤師をしている。病棟の受け持ち薬剤師とは、入院患者への服薬指導や、患者入院時の服薬内容の確認などを主な仕事にしている。

新幹線が動き始めると、これから6日間をともに過ごすメンバーで今回の医療支援に参加することになった経緯、普段の仕事内容、家族構成などについて話した。私は出身が岩手県盛岡市ということもあり、自ら希望しての支援チーム入りだったが、話を聞いてみると所属部署の上司から話を持ちかけられて参加という人もいた。そのような人も、だからといって本当は気が進まないが仕方なく参加ということではないようだった。皆がこのような形で被災地支援に参加をできることを歓迎しているように感じられた。

日本全国の多くの人が、東日本大震災で被害を受けた人たちのために力になりたいと思っている。しかし、自らが参加できる具体的な支援のイメージを持てず、なかなか行動に移せないという場合が多いのではないだろうか。Fさんも、看護師として人の役に立てるこのようなチャンスは他にないと考え、看護師長からの参加要請に応えたということだった。大学生と高校生の子供がいるFさんは、6日間も家を不在にするのはこれが初めてと言っていた。

東京駅に到着すると昼食の弁当を購入し、午後12時8分発の東北新幹線MAXやまびこ247号に乗り換えた。「福島駅に到着」のアナウンスを聞くと、自然に東側の窓に顔が向いた。しかし、当然特別な何か(飛散する放射性セシウムとか、立ち上る白煙とか)が見える訳ではない。

午後2時21分に仙台駅に到着した。仙台駅で東北本線に乗り換えて松島に向かう。近畿地区大学チームの宿泊場所は松島町になっており、ここから石巻の診療所へ毎日通うことになっている。松島駅には午後3時10分に到着。仙台の午後は大阪を思わせるほどの蒸し暑さだったが、松島までくるとかなり過ごしやすくなった。肌に触れる空気がさっぱりとしている。

松島駅

松島駅

 

■業務引き継ぎのため、松島から石巻の避難所へ。

一目見る限り、降り立った松島駅周辺に震災の影響は見受けられなかった。宿泊場所である新富亭からの迎えの車に乗り、自動車で3分ほどの宿へ移動する。地震の影響で、舗装された道路に一部起伏ができている部分があったが、建物の被害は元々ひどくなかったのか、あるいはすでに修復された後のようだった。宿に到着しフロントへ行くと、壁に「前進松島」という墨字のポスターが張ってある。これは復興推進ポスターとして、松島町内の様々な場所で掲げられていた。書は瑞巌寺住職の吉田道彦老師による。
http://cplus.if-n.biz/5002597/article/0276737.html

部屋に荷物を置き、自動車で石巻へ向かった。近畿ブロックでは現地で2台のワンボックスカーを使用していた。1台は現地で調達した岩手ナンバーのレンタカー、もう1台は医療支援スタート時に大阪から持ってきた阪大の公用車である。前任のF大学チームがレンタカーを使用して石巻に行っているため、我々は宿に駐車してあるもう1台で、石巻の避難所へと向かった。この日(7月13日)までは、F大学チームが避難所内の診療所を担当しているので、実際に働く場所で引き継ぎをする段取りになっている。

松島の宿から石巻の湊小学校避難所までは約28キロ。自動車で小一時間の距離である。松島北ICから石巻河南ICまで三陸自動車道を使い、そこから残り6キロは一般道を走る。内陸部から海へ向かう県道六号線沿いには、ときおり工事中の店舗も見受けられたものの、ほとんどが通常営業をしていた。

何も事情を知らずにこの道路を通ったとしたら、4ヶ月前、この場所に地震と大津波が到来したことには気がつかないだろう。しかし、旧北上川にかかる石巻大橋を渡ったところで景色が突然変化した。

石巻市八幡町

石巻市八幡町

 

中華料理屋やコンビニが空き家になり、町並みから自動販売機が消えた。家屋が倒壊し、電柱が傾いている。信号には明かりが灯らず、交差点では警察官が交通整理をしていた。旧北上川に架かる橋のたもとのこの交差点付近は、おそらく川から大量に水が流れ込んだのだろう、建物の損傷が特にひどく、更地が多かった。そこから約500メートル河口に向けて走ったところに湊小学校があった。

湊小学校避難所

湊小学校避難所

 

4階建て校舎の窓に干された色とりどりのタオルが、生活するために建てられたのではないこの場所に多くの人が住んでいることを示している。2階から手を振って我々を呼ぶ男性がおり、F大学チームであることがわかった。1階東側の入り口から来客用のスリッパに履き替えて廊下を歩くと、すぐに大きなハエが体にまとわりついてくる。

避難所の本部機能が1階中央の職員室に設置されており、まず始めにそこへ挨拶をしに行った。挨拶をすませたところで、F大学の事務担当者が2階の診療所から降りてきた。この人の案内で、理科室へ案内してもらう。この理科室では毎朝8時から避難所の班長会議が行われる。松島から石巻へ向かう道路は朝の渋滞が激しく、8時の班長会議に出席するためには、松島を6時20分頃に出発する必要があるということだった。

廊下には何本ものハエ取り紙が天井からぶら下がっており、数えきれないほどのハエがこびりついている。また、廊下には大きな観音像が安置してあり、線香などが並べてあった。

小学校1階の廊下。天井近くまで津波の水が押し寄せたため、土が一面にこびりついている。ハエ取り紙に無数のハエが捕獲されている。

小学校1階の廊下。天井近くまで津波の水が押し寄せたため、土が一面にこびりついている。ハエ取り紙に無数のハエが捕獲されている。

校舎1階西端の理科室から、2階の東端にある診療所へ移動し、各担当(医師、看護師、薬剤師、事務)毎に業務の引き継ぎを行った。F大学グループの医師は内科の女性医師と救命救急科の若手男性医師の2名だった。

湊小学校避難所では、避難所に住んでいる被災者をAグループ、避難所以外に居住している被災者をBグループと呼んでいる。Bグループの被災者の多くは、津波被害に遭いながらも倒壊を免れた自宅に居住しつつ、避難所で食事の提供を受けたり、校庭に設置された共同浴場を利用したりしている。我々が診療を行う避難所内診療所は、A・B両グループの被災者により利用される。

避難所は開設当初1400人の避難者がいて、診療所への患者数も、その頃は確認できただけで最高149名(3月16日)を数えた。7月13日の時点では避難者数が160名まで減少しており、診療所を訪れる患者数も1日に10名前後となっている。

湊小学校診療所の入口

湊小学校診療所の入口

 

診療時間は、午前の部が9時から12時まで。午後は2時から4時までである。土日祝日も同じ時間で診療を行っている。約7割は、高血圧や糖尿病などの慢性疾患の治療薬を求めての来所である(残りの3割は、外傷、かぜ、不眠と心のケア等)。診療所内にもある程度の薬物は準備してあるが、この時点ではすでに石巻市内の多くの調剤薬局が営業を再開していることから、診療所ではできるだけ処方箋を発行し、調剤薬局で薬を受け取ってもらう方針となっていた。

地震から4ヶ月以上経過したこの時点での医療支援チームの役割は、急性期の「被災者の救命および、健康状態の改善、維持」という段階から、「復旧しつつある地元医療への橋渡し」へと変化していた。前述したが、仮設住宅や民間の賃貸住宅への入居が進み、避難所の入所者数は地震当初の10分の1近くまで減少している。それと同時に患者数も減少していることから、近畿地区4大学チームによって引き継がれてきたこの避難所内診療所も、7月17日までの残り4日で閉鎖することが決定している。

診療所閉鎖決定の背景には、避難住民の自立を促したい、すなわち避難所への入居者を減らしていきたいという行政側の思惑もあるようだった。夏場を迎え衛生面での心配も大きくなることから、避難所入所者数をできる限り減らしたいという意向は、ある程度理解できるものである。

■合同救護本部のある石巻赤十字病院へ行く。

引き継ぎ終了後、湊小学校避難所から石巻赤十字病院へ移動して、石巻合同救護班のミーティングに参加した。石巻の市街地は夕方の渋滞が激しく、午後6時ちょうどに赤十字病院2階の合同救護本部に到着。すでにミーティングは始まっていた。市内各エリアを担当する医療支援チームが月、水、金の週に3回救護本部に集合し、全体への連絡を受けたり、チーム間での情報交換をすることになっている。

合同救護班の午後6時からのミーティングは、以前は毎日行われていたが、被災地の状況が安定期に移行したことで週3回の開催に減った。小学校の教室よりも一回り大きいくらいの会議室にパイプ椅子が並べてあり、7、8の医療支援チームが席に着いている。最前列には50歳代の白衣を着た医師が数人座っていた。日赤病院の部長か管理職クラスの医師と思われる。

この日のミーティングの内容は、あるエリアでのハエ対策(避難所の網戸の修理)について救護本部からの情報提供、心のケア担当の専門チームからの活動報告等だった。心理カウンセリングが必要と考えられる被災者が時々見受けられるが、全体として「救護的に」対処の必要がある新たな心理的問題は今のところ発生していない、ということだった。ミーティングは10分弱で終了した。

ミーティング終了後、会議室と廊下を挟んで向かいにある合同救護本部のオフィスに行き、翌日から旧北上川地区を担当する医療チームとして挨拶をした。我々支援チームのメンバー構成や、緊急連絡先の確認など、必要書類の記入をすませた後、救護本部の事務を担当している石巻日赤病院総務課の佐々木氏から、3月11日の震災発生直後からの石巻圏合同救護班の活動内容について説明を受けた。地域の災害の状況と、その後の救護の状況について非常に分かりやすい説明だった。以下がその内容の要約である。

    • 石巻市は近海の漁業、海運、北上川の河川輸送で栄えた町で人口22万の都市圏(医療圏)を形成している。
    • 東日本大震災では、石巻市の推定死者数は1万人を超える。
推定死者数(石巻市のみ・警察談) 10000名以上
避難所数(当チームで把握分) 313カ所
避難者数(当チームで把握分) 41990名
避難民総数(旧石巻市内の損壊・自宅避難者を含む) 約60000名
(2011年3月27日の集計・石巻合同救護チーム資料より)
    • 石巻地区では、東日本大震災で市立病院をはじめとするほとんどの医療機関が壊滅した。宮城県災害医療コーディネーターである、石巻赤十字病院の石井正医師を中心に、石巻圏(石巻・東松島)の医療・保健等のコーディネートを行っている。
    • 地震発生直後から日赤病院には多数の急患が来院し、初期には1日1200名を超えた。
    • 全国からの救護チーム数は3月26日に最大72チームを数え、5月10日までにのべ2422チームが活動している。
    • 大規模な活動が長期化する状況で、救護班統括本部は、市内を14のエリアに分割し、エリアごとに医療支援チームを割り当てる「エリア・ライン制度」を、3月28日から開始した(「ライン」とは交代しながら継続的に支援を行う救護チームのことで、近畿地区大学チームもその一つ)。
    • 避難所数、避難者数の減少とともに医療ニーズは減少傾向を示しており、救護チームの活動も縮小傾向である。現時点では4チームを残すのみ。
    • しかし、旧北上川の両岸の海沿い地域を中心に復旧の遅れている地域があること、また市北部に無医村地区ができていることから、いくつかのエリアでは依然として救護チーム体制の継続が必要とされている。
石巻市旧北上川両岸の河口付近。近畿大学チームはエリア7を担当。(石巻合同救護チーム資料より)

石巻市旧北上川両岸の河口付近。近畿大学チームはエリア7を担当。(石巻合同救護チーム資料より)

  • 石巻医療圏での救護のコンセプトは、超急性期、急性期の救命や健康維持に重点を置く状況から、慢性期の「地元医療の再生」「地元医療へのバトンタッチ」に重点を置く状況に変化している。
  • 要介護者に対しては、保健師活動の促進・効率化を図ること、必要に応じて福祉的避難所(医療スタッフが常駐しているショートステイ施設)を活用することで対応していく。

合同救護班本部からのオリエンテーションは以上のような内容だった。近畿大学チームが担当しているエリア7の湊小学校避難所内の診療所も、避難者数の減少とともに患者数が減少しており、合同救護班本部の判断によって7月17日で診療所を閉鎖することが決まっている。避難所生活が困難な要介護被災者のショートステイを受け入れる福祉的避難所も、7月22日で終了予定となっている。

石巻市は海沿いの部分を除いては都市機能がほぼ復活しており、開業医も通常の診療を再開している。救護班による医療活動はあくまで「有事対応」であるから、いつかはその活動を終了し、地域の医療福祉活動に移行していかなければならない。しかし、図でも示したように、現在でも復旧が遅れているのは海沿いの地域である。この地域は診療所の再開のめども立っておらず、避難所に入所している被災者は救護班撤収後に、遠くの病院や開業医まで通院しなければならない。

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