第5話「避難所本部の阿部慶吾さんと出会う」

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7月17日(日)〈はれ〉

■診療所最終日。この日をもって避難所内診療所は閉鎖される。

この日で我々の医療支援活動は終了である。そして、我々の活動終了をもって、湊小学校診療所も閉鎖する。最終日なので、駆け込みでやってくる患者さんが増えることを覚悟して松島から診療所へ向かった。15日・16日の2日間は、T先生と交代制をとって診療をしていたが、この日は後片付け作業と患者増に備えて、終日2人診療体制をとった。

朝一番の仕事は、2階のトイレ掃除だった。これは、近畿ブロック大学チームが四日間の医療支援活動の最終日の作業として引き継いできたことらしい。女性用トイレはF看護師とS看護師の二人が行い、男性用トイレは私とT医師、U薬剤師の3人で行った。

診療最終日のためか、これまでの3日間と比較して朝から患者数が多い。診療内容はこれまでと大きな変わりはなく、ほとんどが、定期内服薬の処方箋を希望される方である。

午前中、不眠を訴える二十代半ばの男性が来室した。眠りが浅く、一度目が覚めるとなかなか寝付けない。カルテを見ると、何度か避難所内診療所にも来室している。精神科に通院中で、神経症と診断されている。男性は高校を中退後、通院治療をしながら両親と暮らしている。

「地震もあって大変だと思いますが、ご両親との関係はうまく行っていますか」

「両親は自分の病気のことを軽く考えていると思うんです」

「これまで働いたことはあるの?」

「働きたいと思ったことはあるんですが、まだ一度もないんです」

「いま一番心配なことはなんですか」

「今後のこと」

「将来のこと?」

「それもそうですが、仮設住宅に引っ越すと病院に通えるかどうか心配です。病院から遠くなるし、自動車は父が仕事に乗っていってしまうから、病院に通えないと思う」

この大災害が彼と彼の家族の生活(および彼らの関係)に大きな影響を与えている。大きな自然災害は、常に高齢者や障がい者、心身の病を持つもの、子供など、立場が弱い人間、手助けを必要とする人間から揺さぶっていく。

睡眠薬はすでに通院先からもらっているということだった。15分ほど話を聞き、投薬なしで診察を終了した。

■突然の断水。阿部さんは、ペットボトルの水を抱えて診療所へ来た。

来室者の切れ間に少しずつ診療所内の後片付けを進める。カルテや医薬品は石巻日赤病院の合同救護本部へ持って行くことになっている。診療所は閉鎖となるが、応急処置に使用する消毒薬や絆創膏などは、診療所として使用してきた小学校の家庭科室に置いておくことになった。日赤病院へ持って行くもの、廃棄するもの、家庭科室においていくものを5人の医師、看護師、薬剤師で分別しながら整理して行く。そしてその作業中、突然断水が始まった。

断水が始まって間もなく、1.5リットルのミネラルウォーターを2本もって初老の男性が診療所へ来た。

「断水は、昼頃までの予定だそうです。理由はまだわかりません。診療にこの水を使ってください」

水を診療所へ持ってきてくれたのは湊小学校避難所の本部で医療関連のまとめ役をしている阿部慶吾さんだった。阿部さんは、元石巻市立養護学校校長で、地震発生までは、湊小学校と国道398号線を挟んで南側(海側)にある石巻総合福祉会館の館長をされていた(福祉会館は震災後閉鎖)。

湊小学校と総合福祉会館。福祉会館の1階は市立湊幼稚園になっている

湊小学校と総合福祉会館。福祉会館の1階は市立湊幼稚園になっている

阿部さんからは、発災直後からの避難所の様子や、医療支援の状況に関して貴重な話を聞くことができた。福祉会館の1階は、石巻市立湊幼稚園になっている。

総合福祉会館は、この地域の災害時に避難所に指定されている。地震発生時、福祉会館にいた阿部さんは、幼稚園や津波警報を聞いて福祉会館に集まってきた避難者の統率を計り、独自の判断で多くの命を救った。

ここに記録する内容には一部重複がある。また、阿部さんが、全国からこの避難所に来た医療チームの直接の担当であったことから、やはり医療チームである我々に話す内容が肯定的見解に傾いているところもあるかもしれない。しかし、ここでは出来るだけ話のままに記録しておく。

地震と津波到来直後の湊小学校

阿部さん(以下A)「津波が来た後、(小学校の)プールには、3台自動車が浮かんでました。校庭はヘドロだらけで歩けない状態でした」

F看護師(以下F)「いまのこの運動場の土も、元々の土ではないんですか」

A「これはヘドロが混じった土です。あの歩道橋のあたり(湊小学校から国道398号線を指差して)鉄柱が曲がってるでしょう。あれは全部津波で曲がったんです。石でできた校門も倒れてますから。海から大きな石や何かがゴロゴロ流れてくるんです

F「ひどいときは校庭は全部水浸しだったんですか」

A「水浸しです、海ですよ」

F「水が引くのにかなり時間がかかったんですか」

A「はい。一晩かかりました」

F「人や、車も流されたんですか」

A「はいもう、浮いちゃって。そして沈んだりして。ここ(校舎2階にある家庭科室の壁掛け時計を見て)、15時50分で時計の針がとまってますよね。14時46分に地震があったんです。地震があって、津波警報が出て、「避難せよ」の指示があったんですよ。その避難指示のときに避難しなかった人が助からなかったんです」

※石巻に津波が到達する様子:

F「えっと、こちらの地元の方は津波警報は何度も経験されているんですか。わりとしょっちゅうあるのでしょうか」

A「だいたい1メートルくらいのね、津波はみんな経験してます」

F「「ああ、またや」という感じでとらえてしまったのでしょうかね」

A「『またいつもの津波か』ってとらえてしまうことはあったかもしれないです」

F「大津波警報というのは過去にあったんですか」

A「いや、それははじめてです。そのときも最初の小さな津波が引くのをみて、ああだいたいこんなものかと思い込んで、家に物を取りに帰ったりした人がみんな津波にのまれました」

発災直後の避難所の様子

A「暖房が何にもないので、私があそこ(総合福祉会館)からだるまストーブを持ってきて、電気も灯油も何にもないから、ある物を持ってきて用意して、そこでまず先生(医師)に診察してもらったんです」

佐藤(以下S)「けが人もかなり出たのですか」

A「けが人は、さほどなかったです。慢性疾患を持っている方が薬を持つ時間もなく、着の身着のままで避難したのでね、結局なんにもなくて薬も保険証も何もかもすべて流されたので、そういう方にカルテを作って、先生方の診療のお手伝いを私がしたんです」

S「阿部さんはどの辺りにお住まいなんですか」

A「私はここから(西に)100メートルくらい行ったところに家があります。ここに来る患者さんへの対応で家に帰る暇がなくて、だいたい2週間くらい経ってから家に帰ってみたら、自分の家も1階は全部水でやられて、車も3台全部流されて、カーポートの屋根も吹っ飛んじゃって」

S「今は、避難所にいらっしゃるんですか」

A「今は、家に帰ったりこちらで手伝いをしたり、両方をやっています」

避難所医療班担当としての阿部さんの役割

A「私たちがどうしてここにいるかというと、お医者さんが県外から来ます。その先生たちに、この地域の環境の細かい状況が情報として入っていないんです。先生方が我々を頼るのは、我々住民は、だれがどの辺りに住んでいるかはよくわかっている訳です。または、避難所にいると周りをみて、「となり近所の誰々がいない」というのがすぐわかるんです。水が引いてから「誰々がいない」ということになって、みんなで行くと屋根のちょっとした隙間に避難していたりする。そういう人が今度は具合が悪くなったとなると、先生方にその情報を流すと、それじゃあ様子を見に行こうということになります」

S「地域と医療支援チームとの橋渡しをしてこられたんですね」

A「まあそうです。橋渡し役をしていました。先生方は無駄なく動きたいというわけです。時間が限られてますから。紙がない、ペンがない、あるいは水がない、という要求にもできるだけ応えました。先生方に効率よく、少しでも多くの患者を診てもらうために」

地震発生直後、総合福祉会館長としての決断

S「もう一度、地震発生直後の話を聴かせてください。阿部さんは、地震が起きたとき、館長をされていた福祉会館にいらしたんですよね。津波を避けるために、1階の幼稚園の子供たちを道路をはさんだ湊小学校に移動させようと決断したのは、どういう理由だったんですか。ラジオの情報などを参考にしたのですか」

A「いえ、違います。ラジオも何にもないですから。地震の強さでね、あそこ(幼稚園のある総合福祉会館)は避難所だったんだけれども、これは危ないと判断しました。半端な地震ではなかったので、まずは子供たちを小学校に避難させて、また、普段から訓練していますから、地域住民もあそこに避難してきます。その人たちも全部小学校へ避難させました」

S「福祉会館への避難ではみんな津波に飲まれてしまうと」

A「そうです。あそこへの避難では持たないという判断を即座にして、小学校に避難しました。湊小学校は、耐震補強工事をしたばかりだったので、あそこへ行けばなんとかなると思いました。地域住民の中には大変怒った方もいるんですよ。『どうして福祉会館が避難所と指定されているのに、どうして向こう側にいかなくちゃならないんだ』とね。でも、揺れの強さが半端ではなかったので、どうしてもこれだけは守ってくれと言って、避難させました」

S「阿部さんが、子供や多くの人の命を救ったのですね」

A「わたしがもし、あと3分か4分(福祉会館で)ごたごたしていたら津波に巻き込まれました。小学校の4階で見ている人達は、『何やってんだ、早く来い』と手招きしてたみたいなんですが、私は子供や地域住民を避難させるのに夢中でしたから全く気がつきませんでした。それでも、そうやって一緒に避難した人は、みんな助かりました」

発災直後、避難所には水が足りなかった

A「こちらの避難所に来てみたら、薬は何にもないし、寒いし、一晩様子を見ていたら地元の開業医の先生が様子を見に来てくれて、先生は『もう(自分の診療所の)薬が流されてしまって何にもない』というわけです。それで、医師会へ無線でこの避難所の状況を報告して、それから1週間ほど、医療チームがくるまでの間、この部屋で対応しました。

S「地震発生から2日間は飲まず食わずだった、というお話でしたが、避難所には相当な数の避難者がいたのですか」

A「それがね、水は多少はあったんですよ。でも、1400名の避難者にわたりきるほどの量ではなかったんです。そして、避難者の中には赤ちゃんが多くいましたから、赤ちゃんに与える水を優先させるために、飲まず食わずを皆さんにお願いしたんです。そして、2日目の夜かな、ようやくコップにほんの少しだけ水が配られました」

S「そういう全体のマネジメント機関というか、避難所本部というのはすぐに組織されたんですか」

A「はい、それは自治会の連合会長で市議会議員の庄司氏さんが中心になって、すぐに組織されました。避難所では基本的に、町内会単位で教室に入っているので、私は町内会で副会長をしているものですから、5年1組の班長になる予定だったのですが、本部の方から、お前は本部に来て医療班の対応を専門にやってくれと言われました。それで、じゃあ医療班に対して何をしたらいいのかなあと思っていたら、お医者さんに情報を提供してほしいということでした。避難してきた方の体の具合とか、訴えの内容とか、そういうものを医師に提供してほしいと言われました」

S「避難所の避難者数が多いうちは何かトラブルはありましたか」

A「診療所開設当初は1日150人くらいの患者が毎日来ました。避難者同士で何かトラブルが起こるのじゃないかと覚悟していたんですが、あまりトラブルはなかったですね」

S「みなさん非常に協力的だったんですね」

A「ええそうですね。みんな周りは町内会で顔見知りですからね。何かトラブルが起これば後々まで困るわけですよ、トラブった人は。『ここは冷静に、とにかくお医者さんがいるから大丈夫だよ』という話をさせてもらったら、みんな安心していましたね。お医者さんがいなかったらこれは大変だったと思います。パニックですね」

S「医療だけではなくて、食料の供給等もトラブルの元になりますよね、飲料水にしても。そのへんは避難所のみなさんは、本部のリーダーシップのもと非常に協力的だったんでしょうか?」

A「そうですね。食べ物がなかったんでね。ちょうど良いことに、ここは魚の加工場があるんですよ。その中に、笹かまを作っている工場がありましてね、そこから1万枚の笹かまが提供されたんですね。それをね、3日間で食べきりました」

S「すごい!」

A「ええ、そうです。それで、そのうちにおにぎりが来てみたり、バナナが来てみたり、バナナは1本ずつでは行き渡りませんから、それを半分に切って、そういうことを皆で協力してやりました。それで飲み水が来たのは、3日か4
日経ってからでしょうか。でもね、次にいつ来るかわからない飲み水ですから、これは赤ちゃんに優先的に提供しました。私がそれ(物資供給の判断)をしました」

救援物資の配給について気を使ったこと

S「物資を配る際に一番気を使ったことはなんですか。一番大切にしたことはなんでしょうか」

A「もうこれは、弱い人が優先だよということです。私に任されましたので。赤ちゃんの水を確保しなければなりませんので、それだけは皆、理解してくれ、我慢してくれよと、頼みました。そのうちにようやく少しずつ水が届き始めたんですが、あるとき読売新聞とNHKが取材に来まして、『全国に報道するのに、何を一番伝えたいか』と聞かれましたので、とにかく水が欲しいということを伝えてくれるように頼みました。そして、3月20日付けの読売新聞の全国版で大きく記事が載ったんですが、そうしたらいきなり来ました」

S「水が全国から」

A「はい。すぐに送っていただきました。全国から来てくださった、諏訪の日赤や千葉の医療チームの先生方は、とにかく大災害の初動時は被災地に大量の水を持って行かなければならないと、実感したと言っていました」

T医師(以下T)「水さえあれば、2日は何とかなりますからね」

A「はい、そう言ってました。そして、2日間という時間があれば、日本の防災体制では、食料でも他の支援物資でも、だいたい全国どこへでも被災地に届けられるということでした」

F「2日間、水で我慢すれば後は何とかなると」

A「はい。でも今回は大変でした。やっと2日目の夕方にコップに1センチ程度の水を飲むことができました」

S「夏の地震だったら、大変だったのじゃないでしょうか」

A「もし夏だったら、2日の間に避難所で命をなくしていた方がいたでしょうね。そういうわけで、まずは水を確保するのに奔走しました。水は、避難場所には絶対に置くべきですよ」

F「この小学校の校舎は、今後また使う予定なのでしょうか」

A「ああいう大震災がありましたから、このような海の近くに子供を集めたということになりますと、今度は人災ということになりかねませんからね。当分それは据え置きで、現在は、他の学校の校庭に、仮設の校舎を建てようという計画がありまして、それを行政でやっています」

S「この小学校に通っていた子供達は、今は別の場所へ通っているんですよね」

A「はい。もう少し内陸部の中学校の校舎を間借りして、スクールバスで通って授業をしています」

S「この学校にいた子供や大人で、例えば津波の一波と二波の間に家に帰ってその間に津波によって命を落としたかたもいるんですか」

A「はい。この辺りの湾岸沿いの学校は全部津波でやられてますから、学校の先生方も、子供も避難が遅れて亡くなっています」

T「この学校は1階までの津波でしたが、場所によっては建物の3階まで津波に飲まれたところもあるんですよね」

A「女川町は全部津波にのまれたんです。七十七銀行では、行員が3階に避難してそれでも全部飲まれてしまったんです」

津波が来たときに一番大切なこと

A「とにかく、津波警報がでて、避難勧告が出たらちゃんと避難するのが鉄則なんです。自分で判断して、『たいしたことないや』って言って避難解除になる前に、港近くの人間は自分の家に帰ることが多かったんです」

T「いつもの津波警報だからたいしたことないや、と」

A「そうです。それが命取りになったんですね。私の住んでいるのは八幡町というのですが、ここでは36名亡くなったんです。そのなくなった方の亡くなった年齢は、まさにチリ地震津波(1960年)を経験した方達で、津波の恐ろしさを知っているはずの方達なんです。それが50年の間に、何度か経験したそのような恐ろしさがいつの間にか消えてしまって、『また津波か、まあ大丈夫だろう』という感じで、自分の判断で避難勧告を無視して家に帰ったのが命取りになったんです。早く逃げた者は助かったんです。とにかくこの場所は、地震があったら必ず津波がくると、絶対頭においておかなければなりません。」

2010年のチリ地震津波の経験をふまえて

A「あそこ(総合福祉会館)は、避難場所だったんですが1階は全部津波で飲まれてしまいました。避難場所なのに避難ができない場所だなんて皆さん不思議がるんですが、あのときあまりに地震の揺れが大きくて、『これはとてもじゃないけれど危ない』と判断して、避難所を放棄して、道路を挟んで北側のこの耐震工事をしている湊小学校に子供達を皆避難させたんです」

S「それは館長さんが、これまでに伝え聞いたことなどを参考にしての判断だったんですか」

A「いや、それは2010年2月28日に、チリ津波が来るよ、ということになって、みんなあそこ(総合福祉会館)に避難したんです。そのときに第一波がここまで30センチ来たんです」

F「津波が来たんですか?」

A「来たんです。だから高齢のみなさんが80人ぐらい避難してきたんです。そして夜11時30分頃解除になって、12名ほど残っちゃったんです。でも、2月28日の寒さの中、高齢の一人暮らしを家に帰す訳には行かなくて、急遽私の判断で泊まってもらったんです。それはそれで済んだからいいのですが、そういうときに皆さん、避難勧告が解除になっていないのに家に帰っているんですよ。その行動が今回、仇になったんです。これが自己反省もいいところです。避難勧告があったら必ず避難をして、解除になるまで、避難所にいなければならないんです。だから、私は今回は避難勧告が解除になるまで必ず避難所にいなければならないと、子供を親に返さなかったんです。お母さんはすぐにパニックになってしまって、車で逃げようとするんです。これは私が絶対にダメと、子供を渡しませんでした。お母さん方が私のところにベソかいて来たので、私が『車で帰らないでください』と、福祉会館の前に自動車を3、4台止めさせて体だけで小学校へ逃げなさいといいました。車は流されましたが、命だけは助かりました」

T「(総合福祉会館の前の道は)渋滞したんですか?」

A「ここはもう、渋滞ですよ。車で逃げようとして。そして、水がすぐそこまで来ているのにパニックになってしまって、車から降りようとしないんです。降りて逃げろと言ってるのに、逃げようとしないんです。そういう人たちがみんな飲まれてしまいました」

T「逆に、水がここまで来たら怖くて車の外に出られなかったのでしょうか」

A「そうかもしれません。怖くて体が動かなかったんじゃないですかね」

S「そのとき小学校に避難して、そういう渋滞した車が津波に飲み込まれるところをご覧になって、どのような光景だったのでしょう」

A「いやこれはもう、死の海ですよ。瓦礫だけじゃありませんからね。大型トラックがここにどんどん流れてくるんです。その勢いったら、電柱が倒れるんですから」

F「人間が乗っている車も飲まれて行くんですものね」

A「はい。色々なところにぶつかって、その衝撃で亡くなってる方が多くありました」

F「そうですか。じゃあ、溺死というよりも衝突が原因でなくなった方も多かったと」

A「それも含まれています。津波の水圧もあります。本当に津波を甘く見るとダメですね。言葉は悪いですが、仮にこれが大阪湾でおこったら、東京湾で起こったら、本当に大変だと思います。何処に逃げようったって、逃げようがないですから。これはかならずね、想定しないといけないです。和歌山と三重の日赤のチームが青くなって来ました。『全部教えてください』というので『何ですか』と聞くと、地元を出てくるときに、石巻の津波の規模と避難したときの様子をどうやって逃げたかとかよく調べてくるように言われたというんです。あそこは東海沖地震とか、大地震が想定されていますよね。今回のここの地震をみて、いままでの避難のシミュレーションでは通用しないということが分かったから、全部調べてくるように言われたそうです。本当に大変な災害で、お話ししようと思えば1時間でも2時間でもできるくらいです」

F「本当ですね。尽きないですね」

A「私たちはここで医療支援の方々に地域の情報をどんどんどんどん入れました。一刻でも時間を無駄にしたら、助からない人がいっぱいいるんですよ。がれきの下に」

F「本当に、生死の境目というものが時間の数分単位の中にあったわけですね」

A「そう、ありましたね。多いときでこの小学校の診療所に医療チームが4チーム入ったんです。そして、3チームはここにいて診療を行って、1チームは外に出て行って、がれきの下で、あるいは家の2階あたりで避難している人の様子を見に行っていました。でも、様子見るにしても場所が分からないですよ。地図がここにありますけど。ですから、町内会ごとに避難所に避難していますから、すると避難所で町内会のみなさんが「誰々の姿が見えないな」ということになるわけです。すると、あそこの家にまだ残っていて動けないのじゃないかということになるわけです」

F「じゃあそういう、避難所の町内会の情報をたよりに、たとえば独居の高齢者とか」

A「はい。その一人暮らしの方の姿が避難所に見えないとなれば、『じゃあ、行ってこよう』『ああ、いたいた』と、こうなるわけです。そしてまずは担架でつれてきて、この避難所で体の様子を先生が診察します。そしてここでは対応しきれないということになると、日赤にヘリコプターで救急搬送するわけです。私が覚えているだけで、20回は搬送されたんじゃないでしょうか」

F「ご遺体もこの場所に運ばれたんですか?」

A「いえ、ここにはご遺体は運ばれませんでした。遺体は別の場所、総合体育館というところで、身元確認をすることになっていました。生死をさまよった方もこの診療所にくるのだろうと、私は覚悟していたんですが、容態の悪い方は先生の判断ですぐに日赤病院に搬送されました。遺体は来ませんでしたが、お年寄りがとてもショックを受けているんですよ、先生方は相当気を使われたと思います」

S「子供たちもショックを受けていたでしょうか」

A「これは、お母さん方の安心が大切だったんです。そして、お母さん方の安心は何処で得たかというと、これは先生(医師)だったんです。小児科の先生と内科の先生がボランティアで来てくださって、その小児科の先生もまた地元の方で被災されているんですが、するとお母さん方は『ああ、ここに先生がいてくれる』と安心しているんです。すると、お母さんが安心しているから子供も安心するんですね。何にも怖くないんです。家族がいるから大丈夫と。そのような状況だったので(急性期に)精神的なケアを受ける方はいませんでした」

阿部さんは、1時間近くにわたって、地震発生直後からの避難所の様子を説明してくれた。

午後4時になり、湊小学校診療所の診察終了時間になった。この時間をもって、この診療所は閉鎖となる。この日は、4日間で一番多い、19名の患者が来室した。

診療が終わった湊小学校診療所。医師の常駐はなくなるが、今後も健康管理室として利用することになっている

診療が終わった湊小学校診療所。医師の常駐はなくなるが、今後も健康管理室として利用することになっている

カルテや医薬品など、診療所から運び出す荷物を車に移動した後、庄司本部長をはじめ、本部の方々と別れの挨拶をして、湊小学校を後にした。1日目よりも2日目、2日目よりも3日目にハエが減ったような気がしたのは、おそらく慣れてしまっただけのことなのだろう。

湊小学校正面玄関

湊小学校正面玄関

石巻日赤病院の合同救護本部に診療所の物品を返却し、我々の石巻圏合同救護班エリア7における任務は終了した。

***

地震と津波がこの町を襲った3月11日は、小雪が舞う寒い日だった。津波で屋根の上に取り残された老人の中には、凍死した人もいるという。時は過ぎて、私たちがこの石巻の診療所にいた7月の4日間は、真夏の暑さが続いた。地震から4ヶ月が経ち、がれきは着実に撤去されている。しかし、未だにこの避難所には150人が住み続けているし、398号線沿いの墓地の墓石は倒れたままだ。

湊小学校は地震と津波から1400人の命を救った。あの日、ここには命の境界線が存在した。この学校の教室に、再び子供たちの笑い声が響くことはないのかもしれない。しかしこの場所では、親を失った子供が、子を失った夫婦が、病を患う孤独な老人が、水や食べ物を分かち合い、互いの心を励まし合いながら困難の中を生きてきた。雪が舞う3月11日から、太陽の日が降り注ぐ夏の日まで。このどこまでも悲しく温かい営みは、世界中の人々の力添えとともに今この時も続いている。子を守り、子を失った湊小学校。ここで起こった出来事はきっと、あの日存在した命の境界線とともに、決して忘れられることの無い記憶としてこの場所にあり続けるのだろう。

あとがき

3月11日の地震と津波が東日本にもたらした被害の甚大さは、発災以来4ヶ月以上をすぎた今でも、連日のように報道されている。しかし、被災された人がどのような物を食べ、どのような匂いを嗅ぎ、何に感謝して、何に対して怒りを感じているのか。それは離れた土地からはどうしても知ることができない。被害の状況や、町の復旧の具合も、テレビや新聞、インターネットの情報だけでは得られるものがどうしても限定される。私が住んでいる関西では特に、東北と地理的に離れていることもあり、それぞれの人が多かれ少なかれ東日本大震災で被災した人たちのことを心配しながらも、今ひとつイメージが湧かないと感じていると思う。

「今度の震災は本当に大変だと思うけれど、何がどう大変なのかよくわからない。力になりたいのだが、どのようにすれば役に立つのかもわからない。正直なところ、南三陸町も、陸前高田も地理的な見当がつかないし…」

被災地から離れたところに住む人たちには、こういう思いを持っている人が多いのではないだろうか。被災地に医療支援に行くことが決まったとき、このような離れた所に住む人たちに、少しでも東日本大震災について実感を持ってもらうために、できるだけ詳細な記録を残したいと考えた。しかし、これを書き終えた今、その目論見がうまく行ったのかどうか不安でしかたがない。大自然の猛威の前では、言葉はどこまでも陳腐になってしまうし、写真はフレームの中におさめてしまうと、どこか報道写真の焼き直しのようになってしまう。

そういうわけで完成度に関しては甚だ疑問が残るが、私という一市民の目からみたこの記録が、かの地から離れて住む人に少しでも災害の実感を持っていただくきっかけになれば幸いである。少しでも多くの人に読んでもらうために、出来るだけ早く英訳版の作成に入りたいと思っている。

今回の被災地入りで一番印象に残っているのは、小さなコミュニティーのリーダーたちの姿である。リーダーというと、政治やビジネスをハンドルする大きな共同体の束ね役に目がいきがちである。しかし、人が本当に大変なとき、生死をさまよう状況になったときに重要なのは、人が手を伸ばして触れる距離で構成される小さな共同体のリーダーである。今回はそのことを本当に実感させられた。彼らの存在の仕方、彼らの決断が、ぎりぎりのところで共同体の生死を分つのである。彼らは、大きな覚悟を持ち、困難に直面してそこから逃げ出さず、共同体の短期的、長期的トラブルを解決し、仲間をいたわり、彼らと希望を語りあい、今も毎日、地域の再生のために奮闘している。まさに「市民の気概」をみる思いだった。

今回の記録作成には、石巻圏合同救護班本部の資料を参考にし、一部を引用させていただいた。また、今回の医療支援チームで同行した5人の協力のおかげで、この記録を残すことができた。ありがとうございました。また、この記録を公表する上では、140Bの青山ゆみこさん、大迫力さん、砂田祥平くんに貴重なアドバイスと大きな助力をいただいた。深く感謝します。

先日、湊小学校避難所本部の阿部さんと連絡を取ったところ、避難所内診療所が閉鎖した後は、2名の看護師が常駐し、避難者の健康管理をしてくださっているという。暑さが続き、熱中症で救急搬送された避難者が数名いたが、他の疾患も含めて、重症患者の出現はないということだった。仮設住宅への移住が加速しており、湊小学校避難所はまた新たな状況を迎えつつある。

「最後の一人が出て行くまでここでお手伝いします」

阿部さんは電話の向こう側の石巻で、そう言っていた。

東日本大震災で失われた多くの命に哀悼の意を捧げるとともに、被災された方、そして福島第一原発の事故で避難を強いられている方々に一日でも早く安らぎが戻ることを祈っています。

平成23年8月11日
佐藤友亮

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