第1話「大阪を出発。想像以上だった被災地。」

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7月11日(月)〈晴れ〉

■出発前打ち合わせ。

午前10時、医学部付属病院の事務室に石巻への医療支援メンバーが招集された。派遣メンバーと長机を挟んだ形でクールビズの事務方がずらり8人並びそろうと、担当課長のS氏から今回の派遣概要が説明された。

石巻市合同救護本部の指示のもと、近畿ブロック4大学の医療支援チームがローテーション方式で現地4日間の活動を行っている。派遣チームの構成は、医師2名、看護師2名、薬剤師1名、事務方1名の計6名。我々の医療活動は7月14日から17日までであり、その期間を挟む7月13日と18日が移動日となっている。7月13日は現地まで移動した後、我々の前チームとして活動しているF大学と引き継ぎをする。

石巻市内の医療体制は開業医を中心に復旧が進んでおり、5月から行っているこの短期医療支援は、我々の派遣を持って一旦終了するということだった。大阪大学は近畿ブロック4大学の幹事校となっており、今回の派遣は医療支援とともに、救急診療所の撤収作業も任務の一つとなっている。医療活動最終日の7月17日には、診療所と宿の後片付けのために大学の事務方4名が別に現地入りする。

今回の派遣はボランティア活動ではなく、大学病院からの出張業務である。病院から要請があった各部署(内科系診療科、看護部、薬剤部、および事務部)で人選をし、近畿ブロック内で割り当てられている日程において、チームを派遣する(今回は阪大病院からの4回目の派遣である)。派遣に際して特別な損害保険に加入するということはなく、万が一の事故の場合は労災として扱うということだった。そのような経緯から、派遣メンバーは、病院および大学の常勤職員が対象になっている。

大学病院は医師の常勤職員が非常に少なく、特に若手医師の場合は、ほぼ全員が臨床研修医、非常勤職員または大学院生である。私が所属する医局でも、若手医師の中では「ぜひ医療支援に参加したい」という者が数人いたが、そのような人間は大学からの派遣チームに入る資格を有していなかった。万が一の場合の補償など様々な問題はあるだろうが、このような貴重な意思が大学病院からの支援体制に反映されないのは残念なことである。

大学当局はその後、大学院生などの若手医師を対象に、2〜4週間という比較的長期間の医師派遣を考慮しているということだった。(注:8月になり、近畿地区の大学病院から岩手県宮古市へ医師の継続的派遣が行われている)

7月13日(水)〈晴れ〉

■石巻へ出発。

午前8時45分、新大阪駅の新幹線西改札口で医療支援チームの6人が集合した。9時7分発のぞみ220号に乗り、車内でお互いに自己紹介を行う。今回の派遣チーム内でもともと顔を知っていたのは、私とF看護師だけだった。私とFさんにしても、病院の当直業務の際に何度か顔を合わせたことがあるだけである。職員数約1800名。組織としての大学病院の大きさを改めて思い知らされる。メンバー構成を簡単に記すと、以下のとおり。

M氏(事務)40歳代
T医師 40歳代
佐藤(医師)39歳
F看護師 40歳代
S看護師 20歳代
U薬剤師 20歳代

最年長は事務のM氏。対外的な連絡業務全般、撤収作業の指揮を担当。2名の内科医師は、T先生と私。T先生は糖尿病が専門で、学年は私の5年先輩になる。私の専門分野は血液疾患である。2名の看護師のうち、Fさんは大阪市内の病院に長く勤めた後、6年程前から大学病院に勤務している。もう一人の看護師Sさんも公立病院の病棟勤務を経て、3年前に大学病院に就職した。ふたりとも病院の内科系病棟ナースである。最年少はU薬剤師。病院では外科系病棟の受け持ち薬剤師をしている。病棟の受け持ち薬剤師とは、入院患者への服薬指導や、患者入院時の服薬内容の確認などを主な仕事にしている。

新幹線が動き始めると、これから6日間をともに過ごすメンバーで今回の医療支援に参加することになった経緯、普段の仕事内容、家族構成などについて話した。私は出身が岩手県盛岡市ということもあり、自ら希望しての支援チーム入りだったが、話を聞いてみると所属部署の上司から話を持ちかけられて参加という人もいた。そのような人も、だからといって本当は気が進まないが仕方なく参加ということではないようだった。皆がこのような形で被災地支援に参加をできることを歓迎しているように感じられた。

日本全国の多くの人が、東日本大震災で被害を受けた人たちのために力になりたいと思っている。しかし、自らが参加できる具体的な支援のイメージを持てず、なかなか行動に移せないという場合が多いのではないだろうか。Fさんも、看護師として人の役に立てるこのようなチャンスは他にないと考え、看護師長からの参加要請に応えたということだった。大学生と高校生の子供がいるFさんは、6日間も家を不在にするのはこれが初めてと言っていた。

東京駅に到着すると昼食の弁当を購入し、午後12時8分発の東北新幹線MAXやまびこ247号に乗り換えた。「福島駅に到着」のアナウンスを聞くと、自然に東側の窓に顔が向いた。しかし、当然特別な何か(飛散する放射性セシウムとか、立ち上る白煙とか)が見える訳ではない。

午後2時21分に仙台駅に到着した。仙台駅で東北本線に乗り換えて松島に向かう。近畿地区大学チームの宿泊場所は松島町になっており、ここから石巻の診療所へ毎日通うことになっている。松島駅には午後3時10分に到着。仙台の午後は大阪を思わせるほどの蒸し暑さだったが、松島までくるとかなり過ごしやすくなった。肌に触れる空気がさっぱりとしている。

松島駅

松島駅

 

■業務引き継ぎのため、松島から石巻の避難所へ。

一目見る限り、降り立った松島駅周辺に震災の影響は見受けられなかった。宿泊場所である新富亭からの迎えの車に乗り、自動車で3分ほどの宿へ移動する。地震の影響で、舗装された道路に一部起伏ができている部分があったが、建物の被害は元々ひどくなかったのか、あるいはすでに修復された後のようだった。宿に到着しフロントへ行くと、壁に「前進松島」という墨字のポスターが張ってある。これは復興推進ポスターとして、松島町内の様々な場所で掲げられていた。書は瑞巌寺住職の吉田道彦老師による。
http://cplus.if-n.biz/5002597/article/0276737.html

部屋に荷物を置き、自動車で石巻へ向かった。近畿ブロックでは現地で2台のワンボックスカーを使用していた。1台は現地で調達した岩手ナンバーのレンタカー、もう1台は医療支援スタート時に大阪から持ってきた阪大の公用車である。前任のF大学チームがレンタカーを使用して石巻に行っているため、我々は宿に駐車してあるもう1台で、石巻の避難所へと向かった。この日(7月13日)までは、F大学チームが避難所内の診療所を担当しているので、実際に働く場所で引き継ぎをする段取りになっている。

松島の宿から石巻の湊小学校避難所までは約28キロ。自動車で小一時間の距離である。松島北ICから石巻河南ICまで三陸自動車道を使い、そこから残り6キロは一般道を走る。内陸部から海へ向かう県道六号線沿いには、ときおり工事中の店舗も見受けられたものの、ほとんどが通常営業をしていた。

何も事情を知らずにこの道路を通ったとしたら、4ヶ月前、この場所に地震と大津波が到来したことには気がつかないだろう。しかし、旧北上川にかかる石巻大橋を渡ったところで景色が突然変化した。

石巻市八幡町

石巻市八幡町

 

中華料理屋やコンビニが空き家になり、町並みから自動販売機が消えた。家屋が倒壊し、電柱が傾いている。信号には明かりが灯らず、交差点では警察官が交通整理をしていた。旧北上川に架かる橋のたもとのこの交差点付近は、おそらく川から大量に水が流れ込んだのだろう、建物の損傷が特にひどく、更地が多かった。そこから約500メートル河口に向けて走ったところに湊小学校があった。

湊小学校避難所

湊小学校避難所

 

4階建て校舎の窓に干された色とりどりのタオルが、生活するために建てられたのではないこの場所に多くの人が住んでいることを示している。2階から手を振って我々を呼ぶ男性がおり、F大学チームであることがわかった。1階東側の入り口から来客用のスリッパに履き替えて廊下を歩くと、すぐに大きなハエが体にまとわりついてくる。

避難所の本部機能が1階中央の職員室に設置されており、まず始めにそこへ挨拶をしに行った。挨拶をすませたところで、F大学の事務担当者が2階の診療所から降りてきた。この人の案内で、理科室へ案内してもらう。この理科室では毎朝8時から避難所の班長会議が行われる。松島から石巻へ向かう道路は朝の渋滞が激しく、8時の班長会議に出席するためには、松島を6時20分頃に出発する必要があるということだった。

廊下には何本ものハエ取り紙が天井からぶら下がっており、数えきれないほどのハエがこびりついている。また、廊下には大きな観音像が安置してあり、線香などが並べてあった。

小学校1階の廊下。天井近くまで津波の水が押し寄せたため、土が一面にこびりついている。ハエ取り紙に無数のハエが捕獲されている。

小学校1階の廊下。天井近くまで津波の水が押し寄せたため、土が一面にこびりついている。ハエ取り紙に無数のハエが捕獲されている。

校舎1階西端の理科室から、2階の東端にある診療所へ移動し、各担当(医師、看護師、薬剤師、事務)毎に業務の引き継ぎを行った。F大学グループの医師は内科の女性医師と救命救急科の若手男性医師の2名だった。

湊小学校避難所では、避難所に住んでいる被災者をAグループ、避難所以外に居住している被災者をBグループと呼んでいる。Bグループの被災者の多くは、津波被害に遭いながらも倒壊を免れた自宅に居住しつつ、避難所で食事の提供を受けたり、校庭に設置された共同浴場を利用したりしている。我々が診療を行う避難所内診療所は、A・B両グループの被災者により利用される。

避難所は開設当初1400人の避難者がいて、診療所への患者数も、その頃は確認できただけで最高149名(3月16日)を数えた。7月13日の時点では避難者数が160名まで減少しており、診療所を訪れる患者数も1日に10名前後となっている。

湊小学校診療所の入口

湊小学校診療所の入口

 

診療時間は、午前の部が9時から12時まで。午後は2時から4時までである。土日祝日も同じ時間で診療を行っている。約7割は、高血圧や糖尿病などの慢性疾患の治療薬を求めての来所である(残りの3割は、外傷、かぜ、不眠と心のケア等)。診療所内にもある程度の薬物は準備してあるが、この時点ではすでに石巻市内の多くの調剤薬局が営業を再開していることから、診療所ではできるだけ処方箋を発行し、調剤薬局で薬を受け取ってもらう方針となっていた。

地震から4ヶ月以上経過したこの時点での医療支援チームの役割は、急性期の「被災者の救命および、健康状態の改善、維持」という段階から、「復旧しつつある地元医療への橋渡し」へと変化していた。前述したが、仮設住宅や民間の賃貸住宅への入居が進み、避難所の入所者数は地震当初の10分の1近くまで減少している。それと同時に患者数も減少していることから、近畿地区4大学チームによって引き継がれてきたこの避難所内診療所も、7月17日までの残り4日で閉鎖することが決定している。

診療所閉鎖決定の背景には、避難住民の自立を促したい、すなわち避難所への入居者を減らしていきたいという行政側の思惑もあるようだった。夏場を迎え衛生面での心配も大きくなることから、避難所入所者数をできる限り減らしたいという意向は、ある程度理解できるものである。

■合同救護本部のある石巻赤十字病院へ行く。

引き継ぎ終了後、湊小学校避難所から石巻赤十字病院へ移動して、石巻合同救護班のミーティングに参加した。石巻の市街地は夕方の渋滞が激しく、午後6時ちょうどに赤十字病院2階の合同救護本部に到着。すでにミーティングは始まっていた。市内各エリアを担当する医療支援チームが月、水、金の週に3回救護本部に集合し、全体への連絡を受けたり、チーム間での情報交換をすることになっている。

合同救護班の午後6時からのミーティングは、以前は毎日行われていたが、被災地の状況が安定期に移行したことで週3回の開催に減った。小学校の教室よりも一回り大きいくらいの会議室にパイプ椅子が並べてあり、7、8の医療支援チームが席に着いている。最前列には50歳代の白衣を着た医師が数人座っていた。日赤病院の部長か管理職クラスの医師と思われる。

この日のミーティングの内容は、あるエリアでのハエ対策(避難所の網戸の修理)について救護本部からの情報提供、心のケア担当の専門チームからの活動報告等だった。心理カウンセリングが必要と考えられる被災者が時々見受けられるが、全体として「救護的に」対処の必要がある新たな心理的問題は今のところ発生していない、ということだった。ミーティングは10分弱で終了した。

ミーティング終了後、会議室と廊下を挟んで向かいにある合同救護本部のオフィスに行き、翌日から旧北上川地区を担当する医療チームとして挨拶をした。我々支援チームのメンバー構成や、緊急連絡先の確認など、必要書類の記入をすませた後、救護本部の事務を担当している石巻日赤病院総務課の佐々木氏から、3月11日の震災発生直後からの石巻圏合同救護班の活動内容について説明を受けた。地域の災害の状況と、その後の救護の状況について非常に分かりやすい説明だった。以下がその内容の要約である。

    • 石巻市は近海の漁業、海運、北上川の河川輸送で栄えた町で人口22万の都市圏(医療圏)を形成している。
    • 東日本大震災では、石巻市の推定死者数は1万人を超える。
推定死者数(石巻市のみ・警察談) 10000名以上
避難所数(当チームで把握分) 313カ所
避難者数(当チームで把握分) 41990名
避難民総数(旧石巻市内の損壊・自宅避難者を含む) 約60000名
(2011年3月27日の集計・石巻合同救護チーム資料より)
    • 石巻地区では、東日本大震災で市立病院をはじめとするほとんどの医療機関が壊滅した。宮城県災害医療コーディネーターである、石巻赤十字病院の石井正医師を中心に、石巻圏(石巻・東松島)の医療・保健等のコーディネートを行っている。
    • 地震発生直後から日赤病院には多数の急患が来院し、初期には1日1200名を超えた。
    • 全国からの救護チーム数は3月26日に最大72チームを数え、5月10日までにのべ2422チームが活動している。
    • 大規模な活動が長期化する状況で、救護班統括本部は、市内を14のエリアに分割し、エリアごとに医療支援チームを割り当てる「エリア・ライン制度」を、3月28日から開始した(「ライン」とは交代しながら継続的に支援を行う救護チームのことで、近畿地区大学チームもその一つ)。
    • 避難所数、避難者数の減少とともに医療ニーズは減少傾向を示しており、救護チームの活動も縮小傾向である。現時点では4チームを残すのみ。
    • しかし、旧北上川の両岸の海沿い地域を中心に復旧の遅れている地域があること、また市北部に無医村地区ができていることから、いくつかのエリアでは依然として救護チーム体制の継続が必要とされている。
石巻市旧北上川両岸の河口付近。近畿大学チームはエリア7を担当。(石巻合同救護チーム資料より)

石巻市旧北上川両岸の河口付近。近畿大学チームはエリア7を担当。(石巻合同救護チーム資料より)

  • 石巻医療圏での救護のコンセプトは、超急性期、急性期の救命や健康維持に重点を置く状況から、慢性期の「地元医療の再生」「地元医療へのバトンタッチ」に重点を置く状況に変化している。
  • 要介護者に対しては、保健師活動の促進・効率化を図ること、必要に応じて福祉的避難所(医療スタッフが常駐しているショートステイ施設)を活用することで対応していく。

合同救護班本部からのオリエンテーションは以上のような内容だった。近畿大学チームが担当しているエリア7の湊小学校避難所内の診療所も、避難者数の減少とともに患者数が減少しており、合同救護班本部の判断によって7月17日で診療所を閉鎖することが決まっている。避難所生活が困難な要介護被災者のショートステイを受け入れる福祉的避難所も、7月22日で終了予定となっている。

石巻市は海沿いの部分を除いては都市機能がほぼ復活しており、開業医も通常の診療を再開している。救護班による医療活動はあくまで「有事対応」であるから、いつかはその活動を終了し、地域の医療福祉活動に移行していかなければならない。しかし、図でも示したように、現在でも復旧が遅れているのは海沿いの地域である。この地域は診療所の再開のめども立っておらず、避難所に入所している被災者は救護班撤収後に、遠くの病院や開業医まで通院しなければならない。

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