第2話「石巻漁港、そして松島を歩く」

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Facebook
Post to Google Buzz

7月14日(木)〈晴れ〉

■避難所内での診療第1日目

石巻の予想最高気温は31℃。前任のF大学チームのアドバイスに従い、午前6時20分に宿を出発した。朝8時から開かれる避難所の班長会議に出席するためである。JR松島駅近くの宿から松島北ICまでの国道45号線が、既にこの時間で渋滞している。自動車はトラックやワンボックスカーが多い。石巻での復旧復興作業に従事する人間が松島に滞在するというパターンが多くあるようで、国道沿いには

「全国からの復旧支援のみなさまありがとうございます。どうぞ気をつけて」

という横断幕が貼られていた。一般道、高速道路ともに断続的な渋滞があったが、石巻港ICを過ぎると車の流れはスムーズになり、結局石巻河南ICには午前7時に着いた。湊川小学校避難所のゴミ処分状況が分からなかったことから、避難所までの途中にあるコンビニエンスストアの駐車場で、宿で用意してもらった朝食の弁当を食べた。

午前7時50分頃に湊川小学校に到着し、全員で班長会議が行われる理科室へ行く。この理科室の天井には、津波が来た際の波の高さが、壁のシミとして残っている。

湊川小学校理科室。壁と梁に残るシミが、津波の大きさを表している。

湊川小学校理科室。壁と梁に残るシミが、津波の大きさを表している。

 

予定時間の5分前に、班長会議が始まった。司会進行は、避難所本部長の庄司慈明氏である。庄司氏は地域の自治会長であり、市会議員をつとめている。湊小学校避難所は、写真のように一階が津波で浸水したため、校舎の2階から4階の教室が避難部屋となっている。基本的に町内会単位で教室に入り、教室ごとに班長を選出して、その班長が毎朝の会議に出席することになっている。

会議の冒頭で、この日(7月14日)より診療所を担当する医療チームとして挨拶をした後、駐在医師の診療担当科(内科)、診療時間を伝えた。

■避難所内の様子。

会議出席後、2階東端の診療所で午前9時からの診療開始に備える。窓を開け、4台ある扇風機にスイッチを入れた。その後、軽く床の掃き掃除をした。9時までまだ少し時間があるので、T医師の提案で避難所内の様子を挨拶がてら見回ることにした。

平日の避難所は静かである。子供たちは学校へ行っており、仕事を持っている人は出勤しているので、避難所に残っているのはほとんどが高齢者だった。若者は、本部の手伝いをしているボランティアが数名いる程度。

避難所内の一室(許可を得て撮影)

避難所内の一室(許可を得て撮影)

教室内の様子を軽くのぞきながら廊下を歩いていくと、T医師が立ち止まった。

「この部屋、子供がいるね」

教室の前で上履きを脱いで中に入ると、小学校4年生くらいの子供が窓際で眠っていた。朝から38℃台の発熱があるという。

「耳だれがあるんで、耳鼻科に連れて行こうと思っているんです。前にも同じようなことがあったので」

寝ている子供の隣に座っている父親が言った。以前にも中耳炎で耳鼻咽喉科に通ったことがあり、今回も行ってみるということだった。受診を考えている耳鼻咽喉科に休診などの不都合があれば、いつでも避難所内診療所に相談に来てもらうように伝え、部屋を出た。

午前中3時間の診療時間中は、5名ほどの患者が来室した。高血圧等の慢性疾患に対する治療薬をもらいに来た人がほとんどである。カルテを見ると震災前からの内服薬を継続するために来室した人もいるが、震災後に高血圧を指摘されて治療を始めた人もいる。調剤薬局に提出する処方箋を発行するとともに、今後の通院先となる医療機関宛に紹介状を記入した。多くの人が、この診療所が閉鎖した後の通院先をまだ決めることができないでいた。

時間を持て余し気味のT先生、看護師のFさん薬剤師のU氏は、3人で1階廊下にぶら下がるハエ取り紙の交換をしに行った。

「体育館で絵の具を使ったパフォーマンスがあります。ぜひどうぞ」。音の少ない避難所に、ときおりこのような一斉放送が流れる。

午前中の診療終了後は車で市街地まで戻り、看護師さん達の希望でユニクロへ行った。診療中に身につけるTシャツを買うためである。避難所内は医療チームが白衣を着て廊下を歩くのはむしろ物々しく、異物感が強すぎる印象があった。発災害から4ヶ月が経過した避難所では、生活空間の中を白衣の人間が闊歩するということが、あまり好ましくないように思われた。Tシャツやポロシャツ等の軽装のうえに、医療チームであることを示すベストを羽織るくらいがちょうど良い。私もユニクロで、診療中に穿くための薄手のスボンを1枚購入した。

昼食後は午後2時から午後の部の診療を開始する。天気は快晴で、体感では予想気温の31℃を超える暑さだった。

「避難所に大量の氷がとどきました。氷は溶けてしまえばただの水。遠慮しないでもらいにきてください」

こんな一斉放送が流れた。午後は4名の患者が来室。一人に対して、破傷風トキソイドの注射を行った。倒壊家屋の撤去作業中の男性で、木の大きな板を大腿で折っていたところ、錆びた釘が1センチほど腿に刺さったという。診療所に来たとき既に血は止まっていて、局所の消毒とともに上記の注射を行った。

夕方近くになり、再びT医師の発案で、発熱していた子供の様子を見に行くことにした。子供が寝ていた教室の中をのぞくと、子供は元気そうな様子で父親の横に座り、ポータブルゲーム機で遊んでいた。外から見て大きな問題はなさそうだと判断し、教室内までは入らず診療所に帰った。

■ 安否確認、求人情報、メッセージ。避難所には多くの掲示物がある。

避難所内の廊下には多くの掲示物がある。診療所のある2階の家庭科室の周りには、行方の分からない人の安否情報を求める掲示や、逆に自分の避難場所を誰かに知らせるための掲示が貼られている。

発災直後は電気通信網が完全に遮断されていたことを考えると、この掲示だけが、被災し離ればなれになったもの同士の連絡手段だったのだと思われる。震災から4ヶ月が経過し、1階の本部近くには求人情報も貼られていた。石巻は市の基幹産業である水産業が津波によって壊滅的な被害を負った。産業の基盤が失われたことで、経営者には、従業員の解雇という選択肢が避けがたい現実としてのしかかっている。

避難所一階本部近くに貼られた「求人お知せ」

避難所一階本部近くに貼られた「求人お知せ」

校舎東側の階段から2階にかけての壁には、日本全国、そして世界中から避難所に寄せられたメッセージが掲げられている。その中にこのような手紙があった。

避難所2階に貼られているメッセージ

避難所2階に貼られているメッセージ

支援物資に添えて言葉やメッセージを送ることにどれほど意味があるのだろう。私は被災地に来るまでそう考えていた。「希望をすてないで」とか、「共に生きよう」というようなメッセージは、被災者にとってかえって迷惑なのではないか。被災地に来るまでそう思っていた。

しかし、避難所で実際に目にしたのは、家族と家と職を失った人が、逃れられない現実の前で立ち尽くしている様子だった。どこにも逃げることができず、順番に風呂に入り、洗濯をして、配給の弁当を食べている。支援物資はたくさん供給されている。しかし、形ある物はすべてが通り過ぎていく。物は消費されて、何処からか何処かへと消えてしまう。

ここに来てわかったこと。それは、被災者にとっては、物資さえもが逃れられない「現実」の一部なのだった。そして、大切なものを失った人たちを支えるには、現実だけでは足りない。私は被災地に来てそれを初めて知ることができた。身も心も弱った人、顔も知らない誰かを勇気づけることができる言葉がこの世の中には存在する。そのような言葉を発することができる人間が、この同じ世の中を生きている。

■石巻漁港の甚大な被害。

午後4時に診療所の診察が終了。この日の患者数は9名だった。診察終了後、石巻漁港周辺を視察する。湊地区からさらに海に近い、魚町へ向けて走って行くと、未だに信号は点灯しておらず、粉塵予防のN95マスクをつけた警察官が交通整理をしている。港湾部へ入っていくと、そこは歩行者の全く存在しない、廃墟だった。

海に面した建造物。手前の建物は、構造体が崩壊している

海に面した建造物。手前の建物は、構造体が崩壊している

同じく石巻漁港の様子(魚町2丁目)

同じく石巻漁港の様子(魚町2丁目)

石巻の湾岸部は地盤沈下が著しく、現在でも満ち潮では一部の地域に浸水がある。大潮の時期はさらに浸水は激しくなるという。湾岸部の少し北側を東西に伸びている県道240号線沿いには、大きながれき置き場がある。石巻地域の基幹産業である水産業を担っていた魚町地区の建物は、発災後4ヶ月を経過しても、復旧どころかがれきの撤去さえままならない状態だった。

■松島。この町は、海に浮かぶ島々によって守られた。

漁港地区の様子を見た後、松島への帰路についた。午後4時半の時点で、すでに石巻市内の道路は混雑し始めている。約1時間ほどかかって松島へもどり、宿舎に荷物を置いてから、松島の海岸沿いを歩いてみた。

松島町は、海岸付近に点在する島々が津波の威力を和らげることで、比較的被害が少なく、国宝の瑞巌寺、重要文化財の五大堂も大きな損傷は受けなかった。瑞巌寺は発災直後には避難所として被災者の受け入れも行っていたという。

臨済宗瑞巌寺は伊達政宗が慶長14年(1609)に完成させた寺であるが、元々は天長5年(828)に創建された天台宗延福寺である。大震災をものともせずに存在し続けるこの寺をこの地に建立した古人の才知には感服するばかりである。

この寺が建てられたのは、日本に議会制民主主義が誕生するよりも1000年以上前のことだ。いったい我々、あるいは我々の意思決定システムは、今この日本の海岸線において再び大災害に耐えうる「延福寺」を建立できる才知を果たして持ち合わせているのだろうか。被害が比較的少なかった松島町でも、海沿いの店舗は津波の被害にあっており、いくつかの店舗は閉鎖したままになっていた。

松島の遊覧船乗り場

松島の遊覧船乗り場

カテゴリー: 命の境界線   パーマリンク

コメントは受け付けていません。