第3話「北上川を眺め、足がすくむ」

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7月15日(金)〈はれ〉

■湊小学校避難所の朝。避難室ごとの代表が集まる班長会議。

2日目の朝は前日よりも20分遅い午前6時40分に松島を出た。しかし、この朝は一般道、高速道路ともに渋滞が激しく、湊小学校避難所に到着したときには8時を数分過ぎていた。とくに三陸自動車道の混雑が激しかった。ラジオをつけても事故の知らせは無く、自然渋滞のようだった。

避難所の班長会議には医療チームの代表として私が出席した。前日と同様、出席者へ診療時間を伝え、暑さが続いていることから熱中症への注意をお願いした。

この日の班長会議の議題は、1. 平原綾香コンサートへの招待について。2. 支援物資の管理方法について。3. 朝の班長会議の回数を減らす可能性について、であった。

1.については、コンサート主催者より湊小学校避難所に対して50名の招待があった。参加希望者が50名を超える場合は、抽選で参加者を選ぶことになる。その場合は避難所本部ではなく、主催者側で抽選を行うらしい。

2.の議題は議長からの提案だった。これには前提として、避難所への支援物資は全員で情報を共有し、公平に分配するという取り決めがある。議題はその前提に基づき、支援物資を「共同管理物資」と「個人管理物資」に区別しようというものだった。

全国からの支援物資には、(1)(本部長宛か、あるいは宛名なしで)避難所全体に対して送られてくるもの、(2)避難所内の誰かが、特定の用途と経緯で特に必要だと考え、その要望に応じて送られてくる個人宛の物資がある。議題は、このうち(1)を「共同管理物資」、(2)を「個人管理物資」と名付けて区別しようというものだった。

(1)については、そのまま被災者全体に分配すれば問題ないが、(2)については、物資の受け取りから分配までの流れを確認しておかないと、トラブルの元になる可能性がある。

たとえば避難所内に住んでいるAさんが、校舎内の廊下を歩く来客用の上履き(ほとんどが家庭用の布製スリッパ)の老朽化に気がついたとする。数も足りない。被災者の中には個人用の上履きを持たずに、来客用の上履きを使用している人もいる。汚れたスリッパを使い続けることは、個人および環境の両面において衛生上の問題がある。

このような経緯で、Aさんが上履きとしてゴム製のサンダルを支援物資としてお願いし、それが避難所へ届く。これが、「特定の用途と経緯」で送付された支援物資である。もしこのサンダルを(1)の物資と同様、ただ公平に被災者全員に配るだけでは、使用用途もバラバラになってしまい、せっかくの支援物資を有効に活用することができない。

すべての支援物資は、避難所本部から被災者全員に公平に配ることが前提だが、(2)の様な物資を有効に利用するためには、物資が届いた時点で、支援物資依頼者が物資の到着をきちんと確認し、本部に対してその使用用途を説明する必要がある。

問題は、「特定の用途と経緯」を持って送られた支援物資が、物資依頼者を通さずに配られてしまった場合におこる。おそらくこのような議題が持ち上がったのも、何らかの事例があってのことだろう。

また、避難所には、そこで生活している個人宛にも(親戚縁者などから)見舞い品などが届くと思われる。共同生活をしている被災者の間で、受け取る見舞い品の量や質において大きな偏りが出てくれば、それは当然トラブルの元になるだろう。物資管理の問題は、避難所での共同生活をできるだけトラブルが少なく、円滑に進めるために重要な議題である。避難所運営がいかに一筋縄では行かないかを垣間見た出来事だった。

3.の議題は、班長の一人から提案があった。避難所生活も落ち着いてきていることから、毎日行われている午前8時からの班長会議を減らしてみてはどうかという提案である。週に3回程度まで減らすのかと思って聞いていたが、まずは週に一度会議を行わない日を設定してみるということになった。

日曜日を会議非開催日にしてはどうかという意見があったが、日曜日は避難所のイベント開催が多く、連絡会議を持つ必要があるという意見が出て、結局月曜日に会議を行わないということが決まった。

班長会議の議長役を務めている避難所本部長の庄司氏は、会議中常に穏やかな口調で語る。しかし、そのゆっくりとした語り口やトーンの端々から、氏が強いリーダーシップを発揮していることが感じられた。型にはめすぎた提案をせず、口数の少ない参加者からぽつりぽつりと出る意見を待ち、合意形成まで持って行く。強いリーダーシップと、忍耐強い会議運営。一見矛盾しがちな二つを共存させている庄司本部長の手腕が印象的だった。

■診療所第2日目。

この日の午前中は5名ほどの患者が来室した。日焼けのし過ぎで来室したのは28歳の男性。身長は約175センチ。痩身で、はきはきとよくしゃべる。避難所で生活している被災者ではなく、近隣の自宅に住んでいるということだった。湊川小学校診療所を利用する人の3分の1から半分近くは、このように近隣の自宅に住みながら被災した「Bグループ」にカテゴライズされた人たちだった。

2日前に裸で昼寝をしたところ、気がついたら体の前面(胸腹部、大腿、下腿の内側)が真っ赤に日焼けしていた。自然に収まるかと様子を見ていたが、火照りがとれないため来室したという。顔も含めた体の前面の発赤が強い。顔面は赤みが落ち着いてきているが、前胸部腹部はいまだに熱感がある。全体に水疱形成は無いのでⅠ度の熱傷である。

「みんな仕事がなくなって大変ですよ、ほんとに」

からからと明るい口調で、火傷の若者が言った。石巻市湾岸部のこの地域に住んでいる若者は、漁業や海産物の加工など水産関連の仕事をしている人間がほとんどである。津波で職場を失われた人は、多くが仕事復帰の目処がたたないという。

「会社を経営してる友達も、『職員じゃなくて俺がニート』って言ってますよ」

若者は、日焼けした顔で言った。石巻の漁港設備は、かつては北上川河口の川口町にあったが、その後は魚町にある現在の外港に移転した。前日に視察したが、外港で海に直接面した漁港設備は、壊滅的な被害を受けていた。今後はどのような形で石巻の水産業が復旧して行くのか想像もできないと、若者は言っていた。

魚町にある石巻漁港の市場。地盤沈下によって1階部分が水没している

魚町にある石巻漁港の市場。地盤沈下によって1階部分が水没している

若者の火傷は、診療所にあるステロイド剤を塗るには範囲が広すぎた。日焼けから既に2日が経過していることから、よく冷やして風通しを良くすることで数日で落ち着くだろうと話す。可能であれば、皮膚科を受診して処方を受けるように言った。

彼自身がどんな仕事をしているのかは最後まで分からなかった。平日の昼間に火傷をするほど外で昼寝をしてしまうという状況から言って、(そしてさらに平日の昼間に診療所を訪れるという状況から)彼自身もまた津波で仕事を失った人間の一人なのかもしれない。

■南三陸町の様子。がれきの損傷度が示す、とてつもない津波の威力。

私の担当だった午前中の診察終了後、南三陸町の被害状況を見に出かけた。診療所の午後はT医師が診察を担当することになっている。F看護師、U薬剤師と3人で回転寿し屋で昼食をとってから、南三陸町へ向かった。宮城県北部に位置する南三陸町は、旧志津川町と歌津町の合併により2005年に誕生した。人口は約1万7千人(発災前)。東日本大震災では津波による大きな被害が出た。

「一瞬で町が失くなりました。」

3月23日に発表したメッセージで、佐藤仁南三陸町長は今回の津波被害をそのように表現した。7月22日現在での被害の状況は以下のとおりである(南三陸町プレス発表資料(7/22)より一部抜粋、修正)。

【避難人員(集団避難を含む)】
計2,536人
町内1,899人/町外 637人

【避難所(民家の避難箇所を除く)】
計62箇所
町内19箇所/町外43箇所

【搬入遺体数】
7月21日現在で547体(うち身元確認済み 449体)

石巻河南ICから桃生津山ICまで三陸自動車道の無料区間を北上し、そこからは国道45号線を通って志津川湾へ向かう。

宮城県沿岸北部(石巻から南三陸町)の地図

宮城県沿岸北部(石巻から南三陸町)の地図

両側を木々に囲まれた山道から海に向かって視界が開けると、とたんにがれきが現れ始めた。平地を縁取る森林部は、津波による塩害で外縁部が茶色く枯れている。

南三陸町。津波によって立ち枯れた林を縁取る木。電信柱が傾き、建物は基礎部分が残っているだけで形が無い

南三陸町。津波によって立ち枯れた林を縁取る木。電信柱が傾き、建物は基礎部分が残っているだけで形が無い

志津川湾内部は、ほぼすべてが壊滅しており佐藤町長の言葉通り、完全に町は失われていた。

南三陸町。志津川湾から続く平地部分は建物のほぼすべてが壊滅しており、移動する自動車以外に人の姿は見えない。右上方向が海

南三陸町。志津川湾から続く平地部分は建物のほぼすべてが壊滅しており、移動する自動車以外に人の姿は見えない。右上方向が海

報道で広く取り上げられている公立志津川病院は、海のすぐ近くにたっており、湾岸部から300メートル程しか離れていない。津波到来時は、5階建ての建物の4階までが浸水した。避難誘導中の4名の病院スタッフと、67名の入院患者が命を落とした。

公立志津川病院。玄関に自動車が突き刺さっている

公立志津川病院。玄関に自動車が突き刺さっている

志津川病院から、さらに海に近づいて行く。建物の基礎部分が残っていることから住宅が並んでいたことが想像される。

堤防から約200メートル内陸部にあった自動車。衝突事故では考えられないほど損傷が激しい。黒い車の下に、もう1台白い車がある

堤防から約200メートル内陸部にあった自動車。衝突事故では考えられないほど損傷が激しい。黒い車の下に、もう1台白い車がある

住宅地の瓦礫の中で見つかった、ランドセルと音楽の教科書

住宅地の瓦礫の中で見つかった、ランドセルと音楽の教科書

決壊した堤防。「青い海 みんなで守る 思いやり」「汚すまい この海この浜 この港」堤防にはこんな標語が書いてある

決壊した堤防。「青い海 みんなで守る 思いやり」「汚すまい この海この浜 この港」堤防にはこんな標語が書いてある

堤防の上にあがり、海側からみた町の様子

堤防の上にあがり、海側からみた町の様子

町の基幹産業である、志津川湾近海を中心とした漁業と養殖業は完全に壊滅している。明治、昭和の三陸大津波をはじめ歴史上何度も津波の被害にあってきたこの地域は、今回の津波被害からどのように復旧、復興を進めるのだろうか。より強固な堤防を建設し、同じ場所で同じ産業を蘇らせるのだろうか。

一つ一つの町には、その土地それぞれにおいて地理的に定められた運命がある。この場所は、百年から数百年に一度、大きな自然災害に晒される運命とともにある。そして、この運命を背負った土地に生きてきた人、この運命を背負った土地でしか生きられない人、ここしか帰ってくる場所のない人がいる。

南三陸町は現在、震災復興計画の策定に取り組むとともに、計画に地域住民の意見を取り入れるため、震災復興町民会議を設置した。津波という運命を背負ったこの町の人たちが、「いま」を生きる現住民と、町の未来を受け継ぐ後世のために、何を受け入れ、また、何に立ち向かうのか。それを見続けて行きたいと思うし、見続けなければならない。

なぜなら我々は、南三陸町の人たちと何ら変わりなく、形を変えてそれぞれの運命のもとに生きて行かなければならないからだ。南三陸町が直面しているこの大きな難局は、この地球上に生きているすべての人間がそれぞれに引き受けざるを得ない運命の一形にすぎない。彼らの問題は、私の問題に他ならないのだ。

■多くの犠牲者が出た大川小学校。静かな大河を前にして足がすくむ。

石巻市立大川小学校を見るために南三陸町から石巻へ戻った。志津川湾から海沿いの国道398号線を南下するルートは、新北上川(追波川)にかかる新北上大橋が通行できないため(図)、新北上大橋の南岸にある大川小学校へは内陸部を迂回する必要があった。そこで、志津川湾から国道45号線を桃生津山ICまでもどり、三陸自動車道を河北ICまで南下。追波川南岸沿いを川下に向かって東に走った。

現在も通行止めとなっている新北上大橋は追波川河口から約4kmに位置。大川小学校はその河口側(東側)の低地にある

現在も通行止めとなっている新北上大橋は追波川河口から約4kmに位置。大川小学校はその河口側(東側)の低地にある

大川小学校で多くの児童が犠牲になったことは、震災直後からマスコミで大きく取り上げられている。被害の大まかな経緯は以下の通りである。

大川小学校では、地震発生後の津波によって全校児童108名中74名が死亡・行方不明となった。教職員の死者・行方不明者も10名を数えた。地震発生直後、児童は教諭の指示によって校庭へと避難。地域住民と教頭らが相談の上、低地になっている小学校から、新北上大橋たもとの高台に避難することを決断した。その避難途中で、津波が児童と誘導していた教職員を襲った(下図)。

大川小学校児童と教職員の避難経路

大川小学校児童と教職員の避難経路

現場にいた職員のうち唯一生還した40台の男性教諭によると、学校のすぐ裏に山があるが、地震による倒木の危険があり、避難場所に適さないと判断されたということだった(4月9日付け時事ドットコム)。教職員に誘導され、川に向かって避難した児童は、逆流する大河に飲み込まれて命を失った。津波が到達したのは午後3時36分頃、地震発生からすでに約50分が経過していた。こちらが新北上大橋と、津波到来で東から西に向かって逆流する追波川の映像である。

児童が避難するはずだった橋のたもとの高台は完全に津波に飲み込まれている。我々は、この映像の中で冠水している県道30号線を通り、大川小学校へ向かった。

 

途切れたままの新北上大橋。県道30号線から河口側へ向かって撮影。小学校は、この橋を越えた左側(南西)に位置している

途切れたままの新北上大橋。県道30号線から河口側へ向かって撮影。小学校は、この橋を越えた右側(南東)に位置している

校舎の一部だけが残る小学校。がれきの撤去作業が行われていた

校舎の一部だけが残る小学校。がれきの撤去作業が行われていた

高台になっている新北上大橋のたもとから、東側に向かって小学校を見下ろすような位置に、花や飲み物などを捧げる供物代が置いてあった。そこには、震災前の小学校の姿をおさめた写真が掲げてあった。

震災前の大川小学校。上の写真において、震災後も残っている茶色い屋根の校舎はこの写真の中央左側に写っている

震災前の大川小学校。上の写真において、震災後も残っている茶色い屋根の校舎はこの写真の中央左側に写っている

宮城県の第3次地震被害想定調査において、津波到達は海岸から3キロまでと予想されており、河口から4キロ離れている大川小学校は避難所に指定されていた。6月18日、石巻市教育委員会は、同市内で行われた合同供養式において、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した二次避難先が明記されていなかった点について責任があると認め、父母に対して謝罪した(2011年6月18日付け読売新聞)。

高台から大川小学校を見下ろすと、左に大河が流れ、それとほとんど変わらない高さに小学校がある。震災前の写真によると、そのさらに河口側には同じ高さに集落があったが、現在は見る影もない。小学校の南側は山である。こちらもまた大きな地震があれば土砂災害の危険がある。実際に、発災直後現場では山に避難した際の倒木を心配したという。最終的に橋のたもとの高台に逃げ始めたのは、地震発生から40分が経過した後だった。そのとき教師たちは、どのようなことを話し合っていたのだろうか。ラジオを聞くことはできていたのだろうか。津波の到来はどの程度想定できていたのだろう。

この自然に対してあまりにも無防備な土地を前にして、静かな大河の流れを見ていると足がすくむ。誰も攻めることはできないのかもしれない。しかし我々は、何も知ることのない「未来」を前にして適切な判断ができなければ、大切なものを、いとも簡単に失ってしまう。

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